教え子姉妹は「美術」が好きだった。
わざわざ東京へ展覧会を見に行っての帰りだったという。
美術が好きでなかったら、この事故に遭うことはなかった。妹はマンガ家になりたかった。後日、残した作品が新聞に紹介された。さらに・・・
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先の8月12日、日本航空123便墜落事故に遭遇、43歳で死亡した。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぼっちの夜
事故当日はNHK-FMでの仕事を終えた後に、大阪府にある友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中であった。九は本来、国内移動には日本航空ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日本航空機に乗っているはずがないと信じていた。しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝広、九のマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。九、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747-100の2階席、右列の前方から4番目に搭乗していた。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っている(夫人で女優の柏木由紀子の後日談)。九は、ハンティング・ワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、何も録音されていなかった(由紀子夫人の後日談より)。
幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぼっちの夜
思い出す 秋の日
一人ぼっちの夜
九ちゃんは、友人の選挙応援で大阪に向かう途中であった。その選挙応援とは・・・羽曳野市であった。
悲しみは 星のかげに
悲しみは 月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
今回の東日本大震災においても「上を向いて歩こう」が歌われている。
搭乗者のほとんどは墜落の衝撃によって致命的な傷害を受けたが、4名の乗客が奇跡的に生存した。生存者は着座の姿勢や人体に接した周囲の物体などの状況が、衝撃をやわらげる働きをしたため生還できたのものと考えられた。
このヘリコプターによる救出劇の一部始終を私たちは凝視していた。
それは、今回の東日本大震災においても同様であった。
■2005年(平成17年)9月16日~21日/第2回「すくらんぶる展」於:ギャラリーいろはに
JR福知山線の脱線事故をテーマにして、吊革の作品を制作。並行して新聞紙を使った作品づくりを進めていた。その仕上がり具合が、あの10年前の阪神淡路大震災の記憶と結びつき、「記憶の断片」という作品が生まれた。あれから10年・・・自分は何をどうしてきたのか、を問い続けている。新聞紙コラージュによる「記憶の断片」そして吊革による「揺られて」、天井に電車の中をイメージした吊革と吊り広告を模した布を配置した。