くりっ(18) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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平野三昧(10)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-がんすい7

「含翠」でもう一つ紹介しておきます。

■愛知県犬山市・名鉄犬山ホテル「有楽苑」含翠門

水琴窟や300種の四季折々の茶花を集めた茶花園などがみどころで、国宝茶室如庵、重要文化財旧正伝院書院、古図により復元された元庵、新しく建てられた弘庵などがあり、静かなたたずまいをみせています。如庵は、織田信長の実弟・織田有楽斎が建てた茶室で、現存する国宝茶室三名席(京都・妙喜庵「待庵」、京都・龍光院「密庵」)のひとつと云われる。この「有楽苑」に「含翠門」というのがある。


さて、「含翠」とは?


●速走多顚躓。灼灼園中花、早發還先萎。遲遲澗畔松、鬱鬱含晩翠。

速かに走れば多くは顚躓[てんち]す。灼灼たる園中の花、早く發けば還て先ず萎む。遲遲たる澗畔の松、鬱鬱として晩翠を含む。

自然と実があってすることは丈夫なものだが、実がなくて急にすることは丈夫でない。松は無調法な遅い体だがいつまでもある。これを実事として見てもよい。松の出方は遅いものだと言う。御前達も花になるな、松になれ。


なんとなく、わかるような・・・


●「晩翠」とは?

冬枯れの季節の緑のように長持ちする葉のこと。転じて老年になっても変わらない節操を意味する。


●『荒城の月』の作詞者として著名な土井晩翠は、明治4(1871)年、仙台市の質商を営む旧家に生まれた。父親は養子だったが、和歌や俳諧をたしなむような教養人で、林吉もその影響から読書好きの少年として育った。ところが祖父が「商家には学問はいらない」という考えだったため、高等小学校を卒業後は家業に従事させられてしまった。学問の道をあきらめきれない林吉は、英語の通信教育を受けるなどして抵抗すること4年、ついに許されて第二高等学校へ入学することができた。その在学中、校友会誌を編集することになったが、原稿が集まらないので自作の『謫居(てききょ)』という長詩を掲載することとし、晩翠生と署名したのがそのまま終生のペンネームとなった。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-きんてつ1

「近鉄百貨店」について書き忘れていたことがあリますので・・・

■近鉄百貨店阿倍野店

旧大阪鉄道が大鉄百貨店阿倍野本店として1937年(昭和12)にオープンした。近鉄百貨店という名称は1948年(昭和23)から使用された。1988年(昭和63)に阿部野橋ターミナルビル新館完成と共にリニューアルオープンした。

すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-きんてつ2



そして、私が幼少期に見ていた近鉄百貨店は・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-きんてつ3

村野藤吾さんの設計・・・あの難波にあった大阪歌舞伎座も。

●村野藤吾(1891年~1984年)

20世紀の日本を代表する建築家。佐賀県唐津市で代々船問屋を営む家に生まれ、福岡県北九州市で育った。1910年、福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、1913年、早稲田大学理工学部電気工学科に入学。しかし、自分には向かないと考え、1915年、同大建築学科へ転学。27歳で卒業した。1918年、渡辺節建築事務所に入所。日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等の設計に携わった。渡辺からは、建築に費用を惜しまないことが客を呼び、ひいては施主の利益になることを叩き込まれる。1929年、渡辺節建築事務所を退所し、村野建築事務所開設。日中戦争・第二次世界大戦中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごした。1949年、村野・森建築事務所に改称。1955年、日本芸術院会員。1967年、文化勲章受章。日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-きんてつ5


その師匠である渡辺節さんは・・・京都にあった近鉄などを設計した人です。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-きんてつ4

●渡辺節(1884年~1967年)

近代日本の建築家。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、関西を中心に商業ビルの秀作を多く残した。