平野三昧(9)
■OMUPブックレットNo。16 街づくりと多世代交流 (OMUPブックレット NO。 16 「共生ケア」シリーズ 1)
OMUPブックレットNo。27 子どもの居場所と多世代交流空間 (OMUPブックレット NO。 27 「共生ケア」シリーズ 2)
中井孝章編、川口良仁・小伊藤亜希子、大阪公立大学協同出版会のブックレット。全興寺の名物僧侶・川口良仁さんが平野の街おこしや「おも路地」の意義について楽しく執筆されています。
■「平野の町づくりを考える会」組織と運動の理念
「考える会」にはその組織と活動理念に関してユニークな特徴があります。組織については、「会長なし・会則なし・会費なし」の3原則を掲げ、様々な背景を有する人々が個人の資格で緩やかに連帯する、というネットワーク型の形態を維持している点に特徴があります。また活動理念については、「おもしろいことをいい加減にやる」をモットーに、自分たちが本当に興味を持って取り組めるテーマを厳選し、ひとりひとりが持続可能なエネルギー配分で取り組めるようお互いが心掛ける、という点に特徴があります。行政とも常に一定の距離を保ち、住民主体のまちづくりにこだわり続ける「考える会」の姿勢には、まちづくりに対する明確な目的意識があります。時間はかかるかもしれないが、ひとりひとりが本当に自分の気持ちからまちづくりに参加し続けられるような下地を育んでゆこう、というのがこの会の活動の核心的な部分です。いわゆる経済効果をねらった「まちおこし」とはある意味で対極な位置にあると言えます。しかしながら、この会の中で育まれた地域を核とした人間のつながりは、しばしば「まちおこし」的な活動を成功させ、結果的に地域活性化を果たすことになっている点は、外から見ても中から見ても痛快そのものです。
・・・この「考える会」の3原則は、本当にスゴイと思います。
■活動の概要
「考える会」のこうした特徴が顕著にあらわれている活動のひとつに「町ぐるみ博物館」があります。1993年にはじまったこの運動は、地区内に自宅や職場などを開放したミニ博物館を展開することによって、まず博物館に関わる住民自身が、来訪者とのコミュニケーションを通じて地域のことを学習し、地域への愛着を深めて行こうとするもので、2003年5月現在15の博物館が運営されています。博物館を運営しながら地域を楽しむ館長の姿を見て、「なんかおもしろそう、わたしもこんな風に楽しんでみたい」とか「自分ならこんなことができるかも」という共感の輪が大地に水が染み込むように広がってゆく、それが大切なのです。毎月第4日曜日に開館する常設館に加え、臨時の博物館を募った試み(1999年7月)においては、実に100館の参加を得ました。「町ぐるみ博物館」がゆっくりとではあれ確実にまちづくり運動を地域に浸透させる役割を果たしている証拠です。また、大阪市と地域住民とが協力して歴史的景観の保全などを行う「平野郷HOPEゾーン計画」事業をはじめ、国際交流を含む様々な外部との共同プロジェクトにおいて、小さくとも人のつながりを何よりも大切にして地道に積み重ねられた「考える会」の人材ネットワークは、地域住民サイドの結束力・行動力の大きな源泉となっています。
・・・「町ぐるみ博物館」も、それぞれが「おもしろい」と感じて「自分のやりたいこと」を好き勝手に展開する・・・というのがいいなあ。
そんな「平野人」気質は・・・
■含翠堂
平野には、庶民が作ったものとしては日本で最初の学問所・含翠堂がありました。各地から講師を招き授業を行った他、飢饉の際などに被災民を救済する事業なども行ったと伝えられている。また含翠堂は、懐徳堂など大坂の私塾形成に大きな影響を与えたとされている。
まさしく「自治都市」と呼ばれるにふさわしい「学問所」です。
●平野の郷学「含翠堂」では、初めのころは陽明学者の三輪執斎の指導を受けたが、専任の教授は伊藤仁斎門下の足代一学や陽明学の篠原正旦、懐徳堂門下の早野反堂などが務めた。伊藤東涯や三宅石庵、五井持軒、のちには藤澤南岳なども来講していて、その時々において優れた師を招いている。諸派の学説の違いにこだわることなく、基本的な生活道徳を学ぶことを目的とする民間の学塾の特色がここに見られる。含翠堂は土橋友直を中心とする有力者七家の出資と合議によって運営された。これは、このあとに登場する懐徳堂の運営方法に大きな影響を与えた。平野郷在住者以外の支援者の中に、懐徳堂を創設した五人の町人(五同志)のひとりである道明寺屋吉左衛門(富永芳春)がいることからも、含翠堂と懐徳堂に深いつながりのあることがわかるのである。含翠堂はやがて同志による掛銀制から、より広い支持層を対象にした自由寄付銀制へと移り変わりながら、明治5年(1872)の学制公布まで活動を維持した。このことは、含翠堂が地域に密着していたこと、地域が学問を求め、また支える力を有していたことを示している。ちなみに含翠堂の名は、もともと庭に老松があったため老松堂と呼ばれていたのを、宋の范質の詩に「灼灼たる園中の花、早に発して還た先に萎え、遅遅たる澗畔の松、鬱鬱として晩翠を含む」とあるに因んで、三宅石庵が命名したものである。現在、含翠堂関係資料は大阪大学文学部国史学研究室に保存されている。
「含翠」つながりで・・・
■奈良八窓庵(興福寺・大乗院庭内茶室「含翠亭」)
寺が廃された為、1892年に奈良国立博物館内に移設された。古田織部の作といわれている。しかし、定かでは無い。茅葺の入母屋、杮葺の豪快な庇(二つに割る袖壁付き)。踏み石や、飛び石も大きなものを使っている。内部は、躙口を入った所が貴人座、右手が相伴席、貴人座の左は台目床が配置されている。中柱付きの点前座(台目切の炉)、袖壁(横木は削木)が付いている。勝手口(茶道口)は色紙窓、正面は風炉先窓、袖には雲雀棚が吊られている。勝手口に添えられた竹など、かなり凝っている。間取り、意匠もさることながら、天井も床前から点前座まで蒲蓆天井。中柱通りで化粧露出の天井となっている。更には、下地窓に花入釘を打ったり(落としがけ同様)。この茶室と興福寺塔頭慈眼院の六窓庵、東大寺塔頭四聖房の隠岐録と称される茶室とあわせて大和の三茶室といわれていた。
■泉涌寺別当・来迎院「含翠の庭・含翠軒」
大同元年(806)弘法大師が荒神尊を奉安して開かれたと伝えられている。後数百年を経て藤原信房の帰依により興す。文明の兵火によって灰と化したが、天正五年(1577)織田信長により五十石を受け、慶長二年(1597)前田利家により再建。徳川氏も別朱印として百国を寄せ、朝廷は御安産の勅願所とされて禁裡御菩提所の別当となった。元禄十四年七月(1702)大石良雄(内蔵助)は、赤穂を退き山科に浪宅を構え檀家となり、茶席含翠軒を建立した。(含翠の庭の栞より抜粋)
●茶席「含翠軒」大石内蔵助建立
山科の浪宅に程近く、幽邃な静域に建つこの茶席は、大石内蔵助が仇討の成功を祈り、密かに茶を点じながらあらゆる秘策をめぐらせた場所として知られ、赤穂忠臣談合所と言う別名がある。
茶室ではありませんが、平野にある町家カフェ「おもろ庵」も紹介しておきましょう。「全興寺」すぐ横にある「おも路地」、そのすぐ横にあるのが「おもろ庵」です。まあ、私とよく似たガラクタ趣味の店です。
「平野」情緒たっぷりの・・・「路地」たちです。