ぱくっ(78) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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絵道KAIDOをゆく(9)


司馬遼太郎『街道をゆく』は、1971年(昭和46年)作者47歳の時に「週刊朝日」で連載開始。その第一歩が・・・


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偶然ではあるが、昭和45年に撮影された「北小松漁港」の写真を発見した。司馬遼太郎が見た景色も、これに近かったと思われる。

・・・大津を北に去ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。山がいよいよのしかかるあたりに、「小松(北小松)」という古い漁港がある。(「街道をゆく」より)


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・・・中世では近江の湖賊(水軍)という大勢力がこの琵琶湖をおさえていて、堅田がその一大根拠地であった。この小松は堅田に属し、伊藤姓の家がその水軍大将をしていた。・・・北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠のとびらまで紅殻が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。(「街道をゆく」より)


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「紅殻格子」は、北小松では最近ほとんど見られなくなっている。


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この「街道をゆく」に同行する須田剋太に結び付けて、須田国太郎を持ち出したのかもしれない。また、司馬遼太郎は須田国太郎のことを、「かれは物の暗部を描こうとしたのではなく、おそらく少年のころから微光もしくは幽光を強烈に感ずる資性があった」とも書いている。彼の作品に強く惹かれての論評であろう。ちなみに、須田剋太は埼玉県・須田国太郎は京都市出身であるから、直接的なつながりはない。


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■須田国太郎(1891-1961)

京都に生まれ、京都帝国大学で美学美術史を学びながら関西美術院でデッサンを修めました。その後大学院に進学、1919年には絵画理論と実践の綜合を求めるべく渡欧して、主にスペインのプラド美術館で、ヴェネチア派の絵画の色彩表現やエル・グレコの明暗対比の技法を独学します。1923年に帰国後は、美術史を講じるかたわら制作に励み、41歳を迎えた1932年、東京銀座の資生堂画廊で、はじめて個展を開きました。これを機に、翌年、独立美術京都研究所の開設にともない、学術面の指導者として招かれ、1934年には独立美術協会会員となって制作活動も本格化、渡欧で得た成果を糧に独自の重厚な作風を確立しました。高潔な人格と広く深い学識、そして東西絵画の融合をも視野に収めた壮大な制作活動は、日本人画家が追求した絵画表現のもっとも注目すべき実践のひとつだと言えます。《法観寺塔婆》(1932年)や《犬》(1950年)、《窪八幡》(1955年)などの代表作、19歳のときから絵画制作と並行するように謡曲を習い、生涯強い関心を寄せた能・狂言の素描などがあります。

●能・狂言デッサン

須田国太郎が昭和2年ころから昭和32年ころまでのおよそ30年間、京都や大阪の能楽堂やホールなどで上演された諸流の能や狂言の名手の舞台をその場で描いたデッサンで、その総数は6000枚あまりにおよぶ。須田画伯に能・狂言のデッサンがあることは一部では知られていたが、その全容は美術界にも能楽界にもほとんど知られていなかった。その能・狂言デッサンのうち5000枚あまりが、平成13年に須田寛氏(当時JR東海会長)から大阪大学に寄贈され、あわせて大阪大学文学研究科において目録が作成されて、ここにようやくデッサンの全容が判明した。それによると、描かれた演目は能345曲、狂言が50曲、演者は48人で、演者はすべて当時の名手ばかりである。このたび、大阪大学附属図書館は文部科学省の特別教育研究経費の支給をうけて大阪大学が所蔵する5000枚あまりのデッサンをすべて電子化して広く一般に公開することとした。描かれている舞台はすべて戦前から戦後にかけての名手の舞台ばかりで、どのデッサンも名匠が名手を描くという趣にあふれており、近代の能楽史料としてもきわめて貴重である。また、須田国太郎の画業はこのデッサンをあわせることによって、はじめて総合的な把握が可能になるのではないかと思われる。


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●「西洋画か日本画を見る」(1947)

「例えば宗人の描いたという栗の一枝の画がある。その栗の枝はまったくその一枝だけでの現れで、それが机上に置いてあるでもなく、壁にたてかけてあるでもなく,宙に吊り下げてあるでもない。そういう意味のあらゆる場所から遊離して、只栗一枝なのであります。」

「勿論東洋画としても、この明暗、遠近を無視しているのではありません。(略)けれどもそのどれもが決して西洋画のように画面全体の隅から隅までの聨関をもったそれではなく、栗一枝に極限されています。(略)栗一枝が抽象されているのですから、栗一枝の置かれている場所をも考えるような遠近と明暗とは発達していません。」

●「画で立つまで」(1950)

「なぜ東洋西洋と違った方向にみて絵が発達したのだろう。その違いは、我々の新しいものの要求は、その総合の上に立つのではないか。」

「(略)中学の五年生頃に京都に丸善が支店を出した。そこで非常に不思議な、これまでみたこともない画を見出した。それに大へんにうたれて、また見に行ったが、その少し後のグラフィクにロンドンに於ける後期印象派の展覧会の記事があり、その中に丸善でみた画が出ているのである。即ちゴッホの石竹をくわえる男であった。ゴッホなるものを初めて知ったのである。これに比べると西洋から帰って来て一躍大家になる日本人の画家というものからあまり感激をうけなくなり、模倣でない仕事を、それが新しいものであることを念願し出した。そしてそれが自分にも出来るというような自信がある気がしてきた。」