ぱくっ(48) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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茶室考(23)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-まさき1

■大阪府泉北郡忠岡町・正木美術館「40周年特別記念展」

2008年9月23日~10月12日東京美術倶楽部/東京都港区新橋

素封家・正木孝之が禅林文化に惹かれて収集した水墨画を中心とする日本・東洋の古美術品の収蔵・展示を目的として1968年に開館した。国宝3件、国の重要文化財12件を含む所蔵品は約1200点に及ぶ。この美術館が開館して40周年を迎え、所蔵する「千利休図」(重文)をはじめ、国宝、重要文化財を館外で本格的に紹介する初めての展覧会が東京で開催された。

●天遊

天に舞い遊ぶような悠然たる境地のこと。利休の参禅の師・古渓宗陳が、正木美術館の「千利休図」に寄せた詩の中に《天遊睡後一清風》とある。天に遊び、目覚めたあとの、あの爽やかな風のような心境。利休の茶禅一致の境地を称えた言葉である。


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■岐阜県岐阜市「水琴亭」

岐阜ゆかりの偉人、原三渓がこよなく愛した「水琴亭」。自然の香りにつつまれて心やすらぐ趣きと風格歴史の面影のこす創業元治元年(1864年)、140年の歴史を持つ岐阜一番の老舗料亭です。広大な敷地内に広がる緑豊かな美しい庭園と、明治時代のモダンな老舗料亭。江戸初期、紀州徳川家の別邸として和歌山市に立てられた「臨春閣」を岐阜ゆかりの偉人原三渓が譲り受け、「天楽の間」「村雨の間」をそっくり川原町に建設し、自ら「村雨の間」に絵筆をふるった。近年、原三渓の評価が高く、残した作品の中で水琴亭のふすま絵のような大作はめずらしく、極めて貴重で文化財に匹敵するものといわれています。原三渓は岐阜市柳津町の生まれで明治大正時代の横浜の大実業家であり、文化人です。昭和5年頃横浜三渓園の臨春閣を、そっくり写した二階建ての数寄屋建築を水琴亭の奥に建て滞在したそうです。三渓が描いた掛け軸や、モクレン、白鳥などの襖絵などが、大切に保存されていました。


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■横浜「三溪園」

生糸貿易により財を成した実業家原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)から造成が始められ、1908年(明治41)に外苑、1923年(大正12)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。


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■原三溪(本名富太郎)(1868年(慶応4)-1939年(昭和14))

岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)に跡見女学校の助教授になり、1892年(明治25)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの美術品収集、作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館内に収蔵されています。


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■広島県竹原市「松阪邸」

初代は延宝2年(1674)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋-石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などをつとめるとともに文化活動を行いました。竹原の町並みの中でも、独特の雰囲気をもっています。入母屋造り、平入り、間口七間のつし二階の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋でつないだ、表屋造りとなっています。建築は江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に全面的な改造を行い、現在の形となりました。「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、その下のうぐいす色の漆喰、大壁造り、塗込めの窓額つき菱格子の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋、彫をもった出格子(それを支えている受木の彫り物)、向う店の下見板の上の与力格子など、非常に華やかな建築意匠です。座敷は全体が数寄屋風の意匠で統一されています。座敷からながめた庭の飛び石や井戸の配置も、計算され尽くした美しさがある。広い庭ではないが、障子を開けても、シュロチクが効果的なアイストップになっている。座敷はジグザグに配置されていて、廊下の材質、開口部の形状も凝っている。円窓は表から見ても、裏から見ても楽しめる。それぞれの部屋の建具が、互い違いに続く。戸を開け放ったときに、建具がどう見えるかが計算されている。ぬれ縁は板を斜めに並べた「矢筈敷き」という敷きかた。この座敷のなかでも最も贅沢を強調している。


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●竹原市の町並み保存地区周辺では、江戸時代の繁栄を今に伝える古い町並みをイメージし、竹筒からあふれるろうそくの灯りで、幻想的にライトアップしています。