茶室考(24)
■日光他田母沢御用邸記念公園
本公園は、世界遺産に登録された日光東照宮をはじめとする二社一寺「日光の社寺」に近接し、北には男体山、女峰山等の日光連山を仰ぎ、南は大谷川の清流を隔てて鳴蟲山を借景とし、西は寂光の滝を源とする田母沢川を境とし、周辺を杉木立に囲まれた閑静で風光明媚な場所にあります。日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時の皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。建物は、江戸時代後期、明治、大正と三時代の建築様式をもつ集合建築群で、現存する明治・大正期の御用邸の中では最大規模のものです。これらの建物や庭園から、当時の建築技術や皇室文化を垣間見ることができます。平成15年(2003)に貴重な建造物として「国の重要文化財」に指定され、平成19年(2007)には「日本の歴史公園100選」に選定されました。
●紀州徳川家江戸中屋敷移築部分
御学問所は創られた当時から梅の間と呼び慣わされてきました。天保11年の創建時は9帖で格挟間形の付書院と違い棚を備えた、現在よりも華やかな部屋でした。日光の田母沢に移築する前に増改築されて、現在の21.5帖の広さになりました。旧紀州徳川家江戸中屋敷当時の姿を伝えるこの部分は、書院様式に数寄屋風の意匠を取り入れることで、当主の好みを感じさせる私的な空間を作り出しています。天皇陛下の書斎として使用されました。
■沼津御用邸記念公園
明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。御用邸は皇室が主として保養のために用いる別邸で、いわばリゾート施設です。当時、このあたり一帯は楊原村と呼ばれる小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめて、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていました。彼らはいずれも明治政府の高官です。川村純義伯爵が後に皇孫殿下(昭和天皇と秩父宮殿下)の養育係になっていることを考えると、この4人の存在が御用邸設置に大きく影響したものと思われます。加えて明治22(1889)年に東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったことも理由の一つにあげられます。
●東附属邸は明治36年4月、本邸の東側に赤坂離宮東宮大夫官舎を移築し、皇孫殿下の御学問所として造営されました。木造平屋建て、552平方メートル(約167坪)です。その際附属建物の増築が少し行われた以外は当時の姿のまま今日に至っています。内部には15余りの部屋があり、時期によって室名に変更がみられますが、間取りそのものは変わっていません。東附属邸は御学問所としての性格上、常住のための建物としてではなく、臨時的な使用が中心だったと思われますが、本邸が焼失した戦後の時期には皇族の方々のご滞在にも用いられたことがあります。御教室・実験室・学問所総裁室等15あまりの部屋がありましたが、この明治期の歴史的建造物を、現代でも使用できるように、厨房・トイレ・空調設備・照明・茶室・水屋等の改築・改修を施し、研修室としたものです。苑内の一角には、本格的な日本庭園とともに、公共茶室「翠松亭」がございます。御殿と一体となった大茶会や、翠松亭だけの落ち着いた茶会を開くこともできます。翠松亭には、千利休作と伝えられる、京都大山崎の国宝茶室「待庵」を忠実に写した「駿河待庵」が併設されています。苔庭の露地のなかに佇むと、風雅を愛でた時代にさかのぼる心地がします。
■奈良県生駒郡安堵町「石田家住宅」
戦国武将・松永久秀が造った多聞城の城門を移築している安堵町の石田家住宅は、重要文化財の中家住宅に隣接している。大きな環濠(かんごう)の中に2軒の住宅が並ぶ様子は豪壮で、往時の面影が浮かぶ。多聞城は今の奈良市法蓮町の若草中学の場所にあった。築城術にたけた久秀が、戦国時代の1560(永禄3)年に築城。信貴山城では天守閣を初めて造営した久秀は、ここでは「多聞櫓(たもんやぐら)」と呼ばれる城の石垣の上に築いた長屋形式の建物を考案。防壁と食料や兵器庫を兼ねる城郭の施設として使った。1573(天正元)年に久秀は多聞城を織田信長に差し出し、信貴山城に退いたが、1578(天正5)年に織田、筒井順慶軍に攻められ自決した。豪華だったといわれる城は、織田信長の命を受けた筒井順慶によって壊された。石垣は順慶の城となる郡山城の石垣に利用。門は順慶の親族にあたる在地武士の石田氏に譲られ移築されたと伝えられる。住宅は1600年代に、中氏が石田氏を養子に迎えた際に建てられた。ここ数年は空き家となり荒れ果てていたが、大阪・船場で着物の卸・小売業を営む大成元さんが借りることになり、私費を投じて改修を行っている。現在は全体の約3割が仕上がっただけだが、主屋の座敷などは使える状態になり、着物などのギャラリーとして活用を始めた。主屋建物中央部分の土間と田の字状に四間取りの和室が古く、江戸時代のもの。西奥の座敷二間と土間の東側は後から増築や改築されたようだという。和室は各部屋に床が設けられ、丸窓があるなど茶室の雰囲気を持たせている。離れとして20年ほど前に茶室が建てられていた。裏庭には神社や霊安殿もあり、武家屋敷らしさも。主屋を中心に、各世代がそれぞれ趣向を凝らして改造を試みているようで建築年代は分かりにくい。だが城門は荒れてはいるものの、ちょうちんを掛けたと思われる金具や、外の様子をうかがうための窓などは昔のまま残されている。
■奈良県奈良市高畑町「江戸三」
明治四十年創業の料理旅館「江戸三」、点在する数寄屋風の離れには時折シカも遊びに参ります。
■長野県千曲市戸倉上山田温泉「滝の湯」
美松亭(離れ)数寄屋造りで、全室に『さわらの木』の内風呂が完備されている。信州の山の中にいるような、『自然の姿』を現した坪庭が付いています。
「丸窓」にこだわって「茶室考」を連載してきましたが、次回からは「屋根」にこだわって・・・「大和棟」をとりあげたいと思います。