茶室考(19)
■延仁寺
寺伝では、天台宗の宗祖最澄が開基であるとされている。本願寺第三世覚如が著した『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』)に、「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されているように、浄土真宗の宗祖・親鸞の遺体を、荼毘(火葬)に付した寺院である。後に戦乱などの影響で廃寺となる。当初は「西光寺」と称していたが、明治16年(1883年)に「延仁寺」と改称し、東本願寺第二十一代嚴如(大谷光勝)により「荼毘所」を寄与される。
■白沙村荘
バス停「銀閣寺前」から東へ向かう途中にある白沙村荘、受付横・待合の丸窓。日本画家・橋本関雪が大正5年に南禅寺から引っ越しアトリエ(制作現場)として、また住居として築造された建物。1万平米の広さで、庭園と建物の一部が開放されている。記念館では関雪の作品やコレクションが展示されている。白沙村荘の命名は、近くを流れる白川の砂(白川砂)に由来する。庭園は東山・如意ヶ嶽を借景とした池泉回遊式になっていて、自由に散策できる。散策路のいたるところに、石灯籠など関雪が収集した石造美術品が配置されているので、植栽の美しさと併せて楽しめる。庭園へ入り最初の石造物は数メートルの高さの「国東塔(くにさきとう)」。更に散策路を進むと、清流に架かる石橋を渡る。この清流は、当初は近くを流れる疏水から取水されていたらしいが、現在は地下水という。庭園の中心となる「芙蓉池」畔をまわるが、池越えにアトリエとして使っていた「存古楼(ぞんころう)」が望める。南池の東側に、茶室の問魚亭(もんぎょてい)、対峙して倚翠亭(いすいてい)と憩寂庵(けいじゃくあん)が続く。これら茶室は、関雪が夫人・よねの為に建てたもの。存古楼の西側には持仏堂があり、鎌倉時代に造られた地蔵尊立像(重文)が安置されている。この持仏堂の前に、珍しい中国産の白松がある。これらの庭園は、一度に造営されたものでなく、約30年間に6回から7回にわたり敷地を買い増し、徐々に庭園が作られていたという。当初、この辺りは人家も無く、見渡す限り水田地帯。庭園造営にあたって堂路面から1メートル以上も低い土地であったため、土盛りをしたという。30年間に亘って関雪が心血を注ぎ作庭した庭園は国指定名勝となっている。
■仙洞御所・又新亭
明治17年(1884年)に近衛家から献上された茶室です。もともとこの場所には修学院離宮から移築した茶室「止々斎」があったそうですが、火災により焼失しました。
茅葺きと柿葺きの屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門により内露地と外露地に隔てられています。四つ目垣で囲むことで結界を設け、ここだけは侘茶の小天地を形づくっています。こちらの又新亭は雅子様が先日入られたそうですが、刺のある四つ目垣を見るといかにも女人御所らしい茶室になっているのが解ります。
■水戸偕楽園内・好文亭
『好文亭』は、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭の別荘ですが、自分で楽しむためだけではなく、領民とともに楽しむ場所であったそうです。現在の建物は、昭和20年の水戸空襲で焼失したものを昭和30年から約3年かけて復元したものです。
■祇王寺
京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。苔の庭でも知られる。