茶室考(15)
■京都・苔寺(西芳寺)
天平3年(731)、行基が開いた西方寺は荒れ寺となり、苔が繁茂していました。松尾大社宮司がこれを惜しみ、夢想国師を招いて再建し、西芳寺と改めました。境内東側は黄金池を中心とした苔の庭園であり、東側には本堂(西来堂)、書院、三重納経塔などがある。庭園内には湘南亭(重文)、少庵堂、潭北亭(たんほくてい)の3つの茶室がある。境内北側には枯山水の石組みがあり、開山堂である指東庵が建っている。
■湘南亭(しょうなんてい)
この建物は庭園の南西部にあり、西から東へ玄関(待合)、長4畳(廊下の間)、6畳(次の間)とつづき、北に折れて4畳台目の茶室、広庇と配列されています。屋根はすべて杮葺、瓦棟で、寄棟・切妻・入母屋の各屋根が適度に配合されています。広庇は土天井、三方吹き放ちで舞台造(バルコニー)となって庭に向かって張り出しています。現存の亭は、慶長年間(1596~1615)に千少庵によって再興されたものと伝えられるが、つまびらかでない。屋根は杮葺き、池に面して入母屋造を形成する。先端に、床の高い吹放しで土天井の広庇を設け、二枚障子を隔てて四畳台目の主室は、亭主床、客座の中央に火灯窓、躙口はなく貴人口のみ、北側は広縁に連なり林泉を見渡すことができ、明るく開放的な茶室である。茶室は中柱と台目切炉を備え、亭主床の構えで別に書院床を設けている。さらに次の間六畳が続き、ここから西へ長四畳と板間の供待ちが連なっている。茶室の作風は、利休流ではなく、織田有楽とか古田織部の作風に近い。しかし少庵の作風には、千利休や千宗旦のそれと異なる面のあったことも事実である。茶室には「松庵」の名もある。なお、岩倉具視がこの亭に幽棲したことがあったと伝えられる。
■潭北亭
茶室は、長4畳に台目の点前座を付け、中柱を立て、炉は台目切にしています。床は点前座の勝手付(下座、西側)に設けられた、いわゆる亭主床になっています。また客座のほぼ中央に地板の低い 明かり床のような付書院があり、火頭窓をあけています。なお、上がり口は通例のにじり口形式ではなく、付書院に並んで腰障子2枚を引き違いにした貴人口形式です。外に小縁をつけ、建物に入り込んだ土間庇があります。1928年、陶芸家の真清水蔵六(ましみずぞうろく)から寄進された茶室である。「湘南亭」「潭北亭」などの建物の名勝は中国の禅書『碧巌録』に出てくる句にちなむものである。
■少庵堂
千少庵の木像を祀る。1920年の建築。
■常照寺・遺芳庵
寂光山常照寺は洛北の鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにあります。本阿弥光悦が土地を寄進し寂照院日乾上人を招いて開かれた寺。吉野門とも呼ばれる赤門は、寛永のころに天下の名妓として一世を風靡した吉野太夫から寄進されたもので、彼女のお墓もあります。春は桜、秋には紅葉が楽しめる。中に入ると境内は緩やかな勾配があり、北山杉が茂っています。奥には吉野太夫が好んだ茶室・遺芳庵があります。丸窓は吉野窓とも呼ばれます。
■高台寺
高台寺は、正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉歿後その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)に開創した寺です。鬼瓦席、遺芳庵を語るには、まず灰屋紹益と吉野太夫の恋物語から語らねばなりません。灰屋は染物に使う灰を売る富豪紹由の養子となりました。実父は本阿弥光悦の一族にあたります。紹益は光悦の娘を 妻にしていましたが、吉野太夫を身請けして後妻にしました。父光悦は怒りますが、偶然雨宿りした家が紹益と吉野太夫がひそかに暮らしていた家で、吉野太夫の茶のもてなしに感動し、二人を許したということです。吉野太夫は六条七人衆の一人でしたが、38歳の若さで亡くなりました。鬼瓦席、遺芳庵は、小川通武者小路上る辺りの紹益の邸址から明治41年(1908)に移築されました。
■遺芳庵は、灰屋紹益が妻である吉野太夫を偲んで造立したと伝えられる吉野太夫好みの席です。「吉野窓の席」とも呼ばれているように、西側の壁面に大きい円形の下地窓があけられていて、しかも内側に障子を立てていますがほんの少し中央部分があくだけで、あくまで意匠的な効果をねらったものでそこには艶やかささえ感じとられます。外観は宝形造茅葺で野趣に富んでいます。内部は、1畳台目に向板を入れ、床はなく向板の 前の壁に掛ける壁床になっています。侘びたたたずまいのなかに開放感と女性的な風趣を漂わせています。
■鬼瓦席は、灰屋紹益遺愛の茶室といわれています。もと樂4代の一入作の鬼瓦が妻に掲げられていたところからなづけられました。いま室内に掛けられているのは6代左入の作です。内部は、4畳半台目で、3枚障子の貴人口とにじり口があり、2枚襖の勝手口を開いて開放的で、居間であり客間であるような雰囲気です。
■傘亭と時雨亭は伏見城の遺構であるといわれ、利休好みです。傘亭と時雨亭とは吹き放しの土間廊下でつながれている珍しい外観で、秀吉が舟で来たという逸話もあります。 傘亭は、茅葺宝形造、傘形に開いた竹垂木・竹小舞の化粧屋根裏がきれいです。内部は隅に1畳敷きの上段とその土間、6畳敷き(もとは板敷き)からなっています。また、上段の反対側にくどをもつ下屋を付け下ろしています。時雨亭は、傘亭にもまして開放的で、突上戸からの眺望をほしいままにした、いわば涼み台です。入母屋造茅葺屋根に丸太柱、土壁という素朴な外観です。ねねが2階から炎上する大坂城を見て涙したとの逸話があります。全体板の間で、西半分を上段、東半分を下段にし、下段の隅に円窓の付いた床を設け、その隣にくどを置き茶立所としています。下層はいわば上層の腰組ですが、くどを築き勝手の機能を備えています。