ぱくっ(30) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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茶室考(10)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-いしくみ1

■石組

日本庭園の構成を見ていくと、樹木等と共に必ず石が据えてある。普通一般的に日本庭園を見るとき、必ずと言っていいほどその樹木の四季の移ろいに目を奪われてしまい、日本庭園にとって最大の構成美の一つである石組を見ることがおろそかになっているのが現状である。明治以降の自然風景主義的な庭園が体制を占め、そこから現在に至るまで、全くと言っていいほど進歩がないために注目の度合いが薄くなってしまったのである。しかし日本庭園が世界的にも注目をされるのは、古くから残る寺社の庭園にある、豪快でいながらにして、ある時にはとても繊細な石組が、世界にも類を見ない庭園であるだけではなく、その巧みな構成に引きつけられるからである。そこでもう一度原点に戻って、日本庭園の石組についての知識を深めていただきたい。石の据え方には色々方法があり、ただ単に石を転がしてあるわけではない。そのような石の据え方や庭園全体を作るということに対しての、いわば参考書のようなものの代表的なものとして「作庭記」がある。これは日本で現存している最古の庭園書であり(世界最古の庭園書でもある)平安時代に書かれた書で、色々な石の据え方が書かれており、古い時代の庭園は必ずと言っていいほどこの「作庭記」による作り方を踏襲している。特に古い時代の庭園の中における石は、一つ一つを見せるのと同時に、集団で石を組むことによって、その時代における最先端の宗教や、哲学、人間の理想論などを、普遍的な石によって抽象的に表現しようとしたのである。それは例えば、中国から伝えられた道教の思想で蓬莱島を表すような石を組んでみたり、人間の不老不死を願って庭園の中に亀島や、鶴島を表してみたり、また仏教思想から理想の世界としての須弥山を表してみたりといった具合である。しかも平安時代や鎌倉時代などの今から800~1200年もの昔に、自然の素材を使いながら、今でも最先端をいくような抽象表現をしていたことを思うと、ただただ頭の下がる思いである。


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■臼杵家

重森三玲による茶室・枯山水・坪庭(昭和35年)香川県高松市/非公開。重森さんは若いご夫婦の庭なので格式に拘らない元気な庭にしたそうだ。坪庭だけでも迫力のある創作庭園であるが、茶室前の庭園は地形に合わせながら高松の海岸美を現している。かつては、書院からは、あの栗林公園の紫雲山が望め雄大な風景が展開していたそうである。部屋から見る坪庭の風情は大徳寺・孤篷庵の忘筌席を思わせる。


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■重森三玲庭園美術館

京都の重森三玲旧宅(旧鈴鹿家)は、吉田神社(※)の社家として名高い鈴鹿家の所有であったものを、昭和18年(1943)に東福寺方丈庭園などの作庭で知られる、庭園家の重森三玲が譲り受けた。本宅が享保期頃(1716-35)、書院が寛政元年(1789)と伝えられる江戸期の建物で、これは近衛家の援助によって建立されたものである。現在の重森三玲旧宅は、これら江戸期の建造物のほか、三玲が新たに自ら設計して建てさせた、二つの茶席(無字庵/昭和28年、好刻庵/昭和44年)と、自作の書院前庭や茶庭、坪庭がつくられている新旧融合の特殊な場所である。重森三玲旧宅は現在、吉田神社界隈で、格式ある社家建築の趣きをつたえる、ほぼ唯一の遺構であり、その文化財的価値は貴重なものである(書院、茶室は国の登録文化財)。書院前の庭は、中央に蓬莱島、東西に方丈、瀛州、壷梁の三島を配した枯山水庭園で、部屋の内部や縁側から鑑賞することができる。三玲が作庭した数々の寺社庭園や個人宅の庭などに比べた場合、この書院前の庭の特徴は、住まいとしての江戸期の建築と調和しながら、茶を中心にした日々の暮らしに則している点にある。


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■重森三玲(しげもり・みれい)

昭和を代表する庭園家(作庭家、庭園史研究家)。日本美術学校で日本画を学び、いけばな、茶道を研究し、その後庭園を独学で学ぶ。庭園家としてしられる以前に、昭和8年に勅使河原蒼風らと生け花界の革新を唱え、「新興いけばな宣言」を発表(起草)した人物としても知られる。昭和24年、いけばな雑誌「いけばな藝術」を創刊、その後、前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」を主宰。重森邸を会場とした毎月1回の白東社の集まりには、中川幸夫などが参加していた。他にも1950年代から重森邸を度々訪れた彫刻家のイサム・ノグチとの交友など、庭園をとおしての交流は多岐にわたる。三玲作庭の庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園。代表作は、京都の東福寺方丈庭園、光明院庭園、大徳寺山内瑞峯院庭園、松尾大社庭園など。また、日本庭園、茶道、いけばなの研究者として重要な業績を残しており、主な著作は、日本茶道史、日本庭園史図鑑、枯山水、日本庭園史大系、実測図・日本の名園などが知られる。重森三玲が庭園を研究した理由について、「庭園は上古から現代に至るまで続いた長い歴史をもっているので(中略)、歴史の永い庭園が最高だと思って取り組んだ」と彼の言葉にある。本人の言葉なので確かだが、三玲が庭を専門にするようになった理由には天災やその時々の偶然がかなり関わっている。


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■天籟庵(てんらいあん)

岡山県加賀郡吉備中央町吉川にある茶室および庭園である。吉川八幡宮の西側にあり、当地出身の作庭家・重森三玲が設計した。吉川公民館の敷地内にある重森三玲記念館に隣接する。18歳の時に取り組んだ処女作とされ、大正3年に重森邸の庭園内に建立されたが、昭和44年にこの地に移築された。四畳半の茶室と三畳大の水屋から構成され、茶庭も移築時に作られ、地面には水流と渦が彩色セメントで作られ、海と陸とを抽象化した意匠を表現している。この茶室は三玲が最初に手がけた作品で、元来は三玲の生家にあったものを当地に移築した。大正2年(1913年)に設計、翌、大正3年(1914年)父親の建築により完成。四畳半の茶室と、三畳の水屋から成る。昭和44年(1969年)に、三玲が指揮し現在地に移築された。庭はコンクリートで造られており草木はほとんど無い。人を常駐させ草木や苔の維持管理をすることは不可能との理由から、三玲自身がこのような庭を設計した。移築に際しては、京都から職人を呼び工事を行った。隣接する八幡宮に因んで、八幡神は海神であるとの解釈から、セメントに色粉を混ぜ2色のコントラストにより海と波をイメージして作庭されている。竹垣は八幡の文字をデザインしたものである。つくばいは鎌倉時代のものを使用し、飛び石には京都の鞍馬石を使用している。


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■東福寺方丈庭園(東福寺本坊方丈八相庭、1939)はデビュー作の一つであり、初期の名作。
1930年代初頭、重森三玲は主に庭園及びいけばなの研究者として活動していたが、各地の庭の調査を重ねる度に建物の図面や資料が存在しても、庭園の資料が皆無であることを感じていた。そこへ室戸台風(1934年)が西日本に上陸し近畿の名園も多大な被害を被った。各社寺には庭に関する資料が残されていないので、修復には困難が予想され、このままでは将来も庭園の研究が発展しないことを痛感した三玲は全国の庭園の実測調査をおこなう決意を固める。そして、1935年頃より1939年にわたって第一次実測調査をおこない、その成果を体系的にまとめた『日本庭園史図鑑 全26巻』を出版する。当時、日本各地の時代や様式も異なる庭園を自ら訪れて実測し、自身で写真撮影も担当した。調査研究を進めていった結果、三玲は一つの確信にいたる。「江戸中期を境にして庭の芸術性が落ちている。そして、自身が生きる昭和期には将来に誇れるような庭がつくられていない…」。これが彼の創作者としての血を再び刺激することになる。
そして、このような思いで東福寺の調査(環境計画)を手がけていた時、東福寺の造園計画が持ちあがり、永代供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受けることになる。国内で多くの庭を実測調査した実績と画家をめざしていた自身の自由な発想でこの仕事に取り組んだ。庭の設計にあたっては、禅宗寺院における廃物利用の精神が市松の庭と北斗七星の庭を創り出す原因になったり、方丈前庭のために探し求めていた巨石が苦労の末に見つかるなど運も味方した。