ぱくっ(29) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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茶室考(9)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-また1

■容膝亭

裏千家の名席『又隠』(ゆういん)を写したもので、細部まで正しく模しているが、ただ一つ躙口の位置だけが違っている。容膝亭と命名したのは、大徳寺の国師・松月(しょうげつ・天保9年79才で没す)である。


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■對依軒(たいいけん)

宮田家は現在眼科医を営むが江戸時代は成瀬家に仕えた武士で、犬山城大手門近くの東側に位置する現在地で勘定方を務めた家柄である。屋敷地は約一千坪と広く、表門付近の屋敷構えは後世の改築が認められるが、今なお上級武家屋敷の面影を偲ばせるものがある。敷地内の東北の位置に對依軒と命名されている数寄屋建築(すきやけんちく)がある。對依軒とは『青山に對し、緑水に依る』と言う故事から二字を取り命名された。昭和6年(1931)先々代の錠吉氏が、京都の数寄屋師高橋為吉に依頼し、表千家久田家11代無適宗也の指導のもとに露地と一体化した茶の湯の空間が表現されている。書院、茶室からなり、4年の歳月を掛けて、用材が吟味され、昭和10年(1935)に完成した。平面は、南側に各3畳の表玄関、取次、寄付を配し、東側に雪隠(せっちん)を突き出し、奥座敷は東北側に1間の床と1間半の床脇付きの12畳の書院と1間の床と押入付きの10畳の次間を配し、座敷の東北側に矩の手に4尺5寸の入側を配して庭に面し、北西側に「又隠」写しの4畳半本勝手の茶席と3畳の水屋を配す。


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■又新亭

千利休の孫・千宗旦が隠居せし時に裏千家に建てた四畳半の茶室「又隠」にならったものといわれている。又新亭の創建は江戸末期のことで、近衛家と親交があった裏千家十一世玄々斎によるものであった。近衛家と千家とは千宗旦以来の長い付合が続いていたことによるらしい。仙洞御所に又新亭が近衛家から移築される前は、修学院離宮の上御茶屋から宝永8年(1709)に移築された茶屋「止々斎」があったが、天明8年(1788)の大火で焼失、その後光格上皇のために再建されたが、嘉永の火災によって再び焼失。その後は空地になっていた。これを惜しんだ孝明天皇皇后・英照皇太后のたっての希望で又新亭が近衛家から移築されたのである。又新亭の建物は、柿葺きの軽快な屋根の一部に茅葺の屋根をつけ、その間取りは、玄関、寄付台二畳、広間六畳、水屋、茶室四畳半と次の間二畳からなっている。そして、四つ目垣の南辺に茅葺の中門があり、その南方に簡素な外腰掛がある。腰掛は待合といわれ、ここで招待客が亭主の迎えを待つ場所。このように又新亭の露地は、外露地と内露地の二つの露地を持っていた。外露地の外腰掛は、片流れの柿葺の屋根、左の袖壁が半吹き抜けで、右は竹格子の下地窓になっている。この外腰掛は宗旦好みといわれ、裏千家の無色軒の腰掛に似ている。この外腰掛の南に形のよい蹲と燈籠が見られる。中門から中露地に入ると、右手に蹲と燈籠を目にしながら茶室のにじり口より席入りをする。茶室内部の北側に床の間、西側に茶道口、にじり口は南側にある。仙洞御所の北池に面する東側に大丸窓がある。この丸窓がすこぶる印象深い。丸窓といっても下は直線に切られ、いうなれば半円に近い。障子の白さにくすんだ竹をひょういと縦横に編んだ網目が斬新な表現で、窓の空間を広く見せている。大徳寺禅の境地を示す「円相」に通じるともいう。裏千家の又隠にはこの丸窓がない。茶室の大丸窓は江戸時代末期になって好まれ、又隠の茶室に似せながら、時代の好みを大胆に取り入れたのが面白い。


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-とびいし

■飛石

今日一般的によく使われている飛石は、茶の湯の発展と共に露地で使われはじめた。だいたい桃山時代から盛んに使われはじめたのではないかと思われる。これは文献等を読んでいると千利休以前の露地には飛石がなかったようであり、江戸初期に書かれた「南方録」にも”休のもず野は、露地すべて芝生なりとかや、飛石なき事相応なり、当国抔砂地多石無きもよろし、苔地抔はせきだの裏しめりて悪し、飛石にすべし”とあるように、利休の堺の露地には飛石がなかったが、京都のように苔地の庭では、雪駄の裏がしめるので飛石の方がよいといっているのであり、飛石はそのようなところでこそ使うべきであると主張しているのである。このように飛石の歴史は、日本庭園の歴史の中でも比較的新しいものであるが、実用的であることはいうまでもなく、景としてみても非常に美しいものを持っており、今日露地以外でも多用されるようになったのである。しかし景と実用性をかねているからといって、一般の住宅の玄関アプローチに使うのは考え物である。なぜなら、日常的に使う場所であるからこそ、買い物の荷物の搬入や、ちょっと自転車を入れたりとかいう場合にもこれがかえって徒になってしまうのである。それと不意の車椅子の方の訪問などではにっちもさっちもいかなくなってしまうからである。飛石は手軽に使えるものであるからこそ、よく考えて使わなければならないのである。

(1)直打ち

読んで字のごとく、石を真っ直ぐに打った飛石である。歩幅を考えて打ってあれば歩きやすいであろうが、変化が無く、良好な素材を使ったとしても面白味はない。
(2)大曲

これも直打ちと非常に似通った打ち方で、変化に乏しい打ち方である。
(3)二連

これは二つの真っ直ぐ打った石を左右に振り分けたりする飛石で、変化に富み、景としても、また歩いてみても非常におもしろい打ち方である。しかしあまりやりすぎるとかえってしつこくなってしまうので、兼ね合いが必要である。
(4)三連打

これも二連と同じような打ち方で、三つの石を使用する。この打ち方も二連やこの後の四連と同じように直打ちや千鳥の中に入れると非常に変化に富み、また見た目も大変美しくなる。
(5)四連打

二連、三連と同じと考えてよい。
(6)二三連打

今までの二連や三連などを巧みに混ぜ合わせたもので、効果的に方向転換したいときや、見た目の変化を付ける場合に効果的である。
(7)三四連打

二三連打ちと同じ考え方でよい。
(8)雁掛

ちょうど雁が大空を飛んでいるような形に打たれているためにこの名称がついた。
(9)千鳥掛

一石ずつ右、左にと千鳥に打った飛石の名称。
(10)七五三打

古来奇数は陽の数で、その中の三つをとって七五三とした。したがって祝儀に用いる数であるが、この考え方だけではなく美的感覚からも非常に美しい配置ができる数で、石組などに好んで用いられたが、飛石にも応用したのが、この七五三打ちである。特に大徳寺真珠庵は七五三の石組と、七五三の飛石は有名で、この絵はそれの写しである。
(11)いかだ打ち

書院式の茶庭の飛石を打つ場合によく用いられる手法で、日本の平行した板石が筏上に似ているためにこの呼び名がついた。