茶室考(8)
■関守石
飛び石の上におかれている蕨縄わらびなわで十文字に結んだ石は、客はここから先に進まないでほしいという主人の気持ちを表す。
■客畳が道具畳に接続している時に、その境界を表示するために「炉屏」というものを置き、結界とする。
■茶室に至る庭の露地などで、客が立ち入るべきでないことを示すため、目印として縄で結わいた石、あるいは小石に差し渡した竹筒などを置き結界とする。
■茶室への入り口であるにじり口での、低く抑えて意図的に入りにくさを強調する仕掛けも、茶席を聖なる非日常空間とするための結界である。
■茶室に入る前に手を水で清めるための「蹲踞(つくばい)」の仕掛けも同様である。
■結界(1)
茶の湯においては、明確に分離する仕切りではなく、もてなす側の亭主と客との間にある暗黙のルールを視覚化するため、種々の仕掛けを設けこれを結界とする。サインのようなものである。茶室へ至るまでの露地は外界と茶室を仕切る、あるいは結ぶ空間である。このように結界は、区切りながら同時につなぎの役割をしている。直接的な手段を用いず、決め事ルール、精神的な縛りなどのもと、それと分かるサインによって境界を表わす。結界は、茶室だけではなく、伝統的な日本の空間にも見られる。町家の格子、鳥居などは、内と外、聖域と外界を分けている。
■結界(2)
本来、仏教用語で、清浄な領域と普通の領域との区切りのことである。この境界線を示すために、神社・寺院などの境内や建築物では意図的に段差を設けたり、扉や柵、鳥居や注連縄などを用いる。一定範囲の空間に設定されたタブーを視覚化したものとも言える。また、聖なる領域と俗なる領域という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。
古来より村の境に配置された道祖神、庚申塔などの石仏は災厄を村内に入れないようにするための結界の役割をしていたともいわれる。
■結界の例
修業の妨げとなるものが入ることを許されない場所、土地に対しても用いられる。女人結界などがその例である。この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしまい、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者とよぶ。また、日本建築に見られる「襖(ふすま)」「障子」「縁側」などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結界」である。空間を仕切る意識が希薄な日本においては、日常レベルでもさまざまな場面で「結界」が設けられる。例えば、「暖簾(のれん)」がそうである。これを下げることで往来と店を柔らかく仕切り、また時間外には仕舞うことで営業していないことを表示する。このような店の顔としての暖簾は、上記の役割を超えて、店の歴史的な伝統までも象徴することとなる。
■玄関
もともとセキュリティや履物を脱ぐ為に設けられたのではなく、家屋に「気」が出入りする場として設けられた。だから普段、その家の住人は殆ど勝手口や縁側から出入りしていた。縁側の「縁(えん)」とは内と外のインターフェイスの場を示している。日本の伝統的家屋は柱と梁の構造で出来ている。だから壁面が少なく、その気になれば何処からでも出入りが出来たのだ。茶の湯の世界で「関守石(せきもりいし)」と云うのがある。大きめのソフトボール球くらいの石に縄を十字にかけただけのものだが、それを茶室に至る茶庭(露地)の中で、客に立ち入って欲しくない場所の入口に置いておく。物理的にはまったく役に立たないが、亭主から客へのの無言の道標(みちしるべ)と云うわけだ。洒落た石表示(いしひょうじ)?玄関と云うものも、もともとそう云うものだったのだろう。関守石(道標)よりもっと精神的宗教的な意思で「結界(けっかい)/宅という聖域との境の線」を表示する為のものと思われる。神社における「境内/聖域」の結界線である鳥居や注連縄(しめなわ)に近い。
■又隠(ゆういん)
京都の裏千家にある茶室。1653年(承応2)、宗旦(そうたん)が隠居屋敷を江岑(こうしん)に譲って再隠居する際に造立した四畳半が又隠であるといわれる。席名の由来は、宗旦が隠居所今日庵を建てたのちもなお諸務に携わっていましたが、再度の隠居に際して新たに造った庵を、また隠居するという意味から命名したことによる。天明(てんめい)大火後、1789年(寛政1)に再建された。茅葺入母屋(かやぶきいりもや)造で軒が低く、ひなびた外観を形成し、内部は、躙口(にじりぐち)の正面に床(とこ)を構え、点前座(てまえざ)に洞庫(どうこ)を備える。天井は躙口側半間通りを化粧屋根裏、ほかは網代天井としている。窓は客座側と躙口側に下地窓が一窓ずつと突上げ窓があけられているだけで、採光や開放性は極度に抑制されている。亭主の口は茶道口に限定されている。利休の完成した草庵風四畳半を踏襲しながら、点前座の入隅に楊子柱の手法を導入するなど、いっそう佗びた趣が強調されている。利休流四畳半の典型として、江戸時代に広く流布された。
■亦楽庵
千宗旦の茶室「又隠(ゆういん)」を模したといわれる四畳半の席。京都の医家で漢学者であった福井恒斎が自邸に建てた茶室である。創建時は母屋に接続していたが、昭和42年(1967)主屋が取り払われて、独立の茶室となった。建物正面の梁間は3間(5.86m)桁行2間半(4.83m)で、正面に躙口を設けている。躙口の正面に床の間が設えられている。席の左手は広い水屋、後ろに廊下が通り、昔、主屋へ行き来があった。この茶室の大きな特徴は、一般に閉鎖的な席が多い中で、大変明るく開放的なことである。床前客畳の背中の壁(正面から見て右壁)を、腰高窓と掃出窓だけで構成し、障子を開くと、瓦四半敷土間を介して、流れを配した庭に出る。屋根は桟瓦葺で、軒先や庇など屋根の端を銅板で葺いている。大屋根、水屋側の小さな切妻屋根、二段の庇、窓や躙口の配置など正面側の姿なども気取らず、明るい茶席とも合せて、全体にゆったりと大らかな雰囲気の茶室である。
■猿面茶席
天下三名席の一つで名古屋城二の丸にあった四畳半台目の茶室。ただし第二次大戦で焼失し、現在立っているのは昭和24年に地元の素封家・森川如春庵の尽力により復元されたもの。また焼失する直前の姿ではなく、近代補修と思われる箇所を改めた姿(如春庵の考証に依る)で再建されている。従って、躙口の位置を始めとして、焼失直前の茶席とは多くの点で相違が見られる。
■望嶽茶席
「澱見茶席」ともいう。文字通り、金戒光明寺西翁院の「澱見の席」を写した、三畳・道安囲・室床の席。建築時期は上記「猿面茶席」と同じ。「又隠茶席」(又隠席)は、安永年間に裏千家又隠席の写しとして久田宗参の好みを加えて建てられたものという。本歌の裏千家又隠席は天明の大火で焼失しているから、この茶席が現存最古の又隠写しであると考えられる。焼失直前の又隠席の姿を伝える、四畳半の席である。知多郡大野の浜島家~海部郡佐屋の黒宮家~中島郡祖父江の山内家~現在地、と移築を重ねている。現在地に移築された時期は「猿面茶席」と同じ。
■露心亭
大本山永平寺貫主丹羽廉禅氏にその名を戴き、承応2年(1653)に創立されたといわれる又隠(ゆういん)の様式を模して造られた。