ぱくっ(17) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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茶室考(4)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-ゆうらく1

千利休に続いて紹介するのは・・・

■織田長益は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。織田信長の実弟。長益系織田家嫡流初代。織田信秀の十一男で、通称は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、又は有楽斎と称される。千利休に茶を学び、利休十哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。


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■東京都千代田区有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、有楽が同地に居住していたことに由来するという説があるが、有楽が江戸に住んだという記録はない。大阪にはかつて、有楽が居住したといわれる場所に有楽町(うらくちょう)が存在した。大阪の有楽町は、現在の大阪市西成区天下茶屋付近であったが、戦後の度重なる区画整理などによって消滅した。


先般、東京・有楽町に行ってきただけに、こんな発見をするとは・・・


■有楽斎の茶は、抹茶は「有楽流」、煎茶は「織田流」として現代に伝えられています。織田流煎茶道は、有楽の大名茶の流れを汲んで、格調の高さと優美さを特色としていますが、抹茶の影響も多分に受けており、煎茶各流派の中でも独自の位置を占めております。江戸時代から「有楽の茶は、客をもてなすをもって本義となす」と評されており、その有楽の心を受けて、織田流にはつぎの三つの口伝が伝えられています。

「口伝」

一、相手に窮屈な思いをさせぬこと

一、相手に恥を掛かせないこと

一、相手に満足感を与えること


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■如庵といいますと京都旧正伝院有楽屋敷の如庵が思い起こされますが有楽は如庵という茶室を三っつつくりました。一番目は大阪城の北際にありました有楽の天満屋敷内の如庵。この天満屋敷は現在は大阪造幣局となっている場所です。この如庵は淀君の宿下がりの場所でもありました。淀君は浅井長政の息女であることは間違いありませんが、柴田勝家滅後の豊臣体制下では織田家の一族として位置し事実上有楽の養女のような扱いでした。この天満屋敷の敷地大きさは、「表側東西四十三間、裏側東西五十間、南北五十三間」(御宮草創旨趣)とありますのでおよそ三〇〇〇坪の大きさでした。記録では太閤秀吉は二度ほどこの如庵を訪れています。有楽が大阪の地を離れ京都に移った後、大阪夏の陣が起こり豊臣氏は滅びます。その後、天満屋敷は家康の子である松平下総守忠明の邸となりますが元和元年には、天満川崎東照宮として整備され 東照宮の別当(雑事を取り扱う寺)として九昌院が設置されました。貫首の地位には京都建仁寺から三江が呼ばれてつきました。天満如庵は今日に到るまで寛永年間、享保年間、享和年間に建て直しになります。享保享和は焼失されたための建て替えですが、寛永年間の立て替えは三代将軍家光が如庵に行きたいと強い希望があったため九昌院に宿泊したためということです。本行国師日記寛永一二年七月二十五日の条には「(将軍家光)大坂天満へ御着 久昌院御宿」とあります。このときの茶室のいじくりは少しばかり面白い。「貞要集」には「天満久昌院の座敷は織田有楽の囲を建て直したが元の如く作る」と書いています。また、「細川三斎茶道御伝授之覚」には「(建て直されたとき)庭石などは直したが、石はそのまま古きを用いる」となっているのですが作図を見ますと、当初の茶室では躙り口が右端に寄っていたものが中央になっています。客が将軍という最高権力者のためなのでしょうか。家光に対してなぜ天満のこの如庵に来たかったのかという問いに対して家光は「徳川の繁栄はこの如庵から始まったと聞いている」と答えたという逸話が残っています。家康と有楽が仲が良かったという逸話は少なからず残っています。ある時、家康の招きで有楽が茶室を訪れると「躙り」をあけたところに家康がいるので「今日は公がご亭主ではないのか」と有楽が尋ねると家康は「自分は花を生けたので有楽が茶を点ててくれ」といって床の花を指さしたといいます。このように家康と有楽の関係は秀吉と有楽との関係に比して遙かに人間的な関係であったと想像が出来ます。九昌院は安永九年に建国寺と呼称を変えますが焼失するにしたがって本席の三畳台目はそのままで次の間が八畳から長五畳、四畳、と変わっていきます。そして天保八年の大塩平八郎の乱の際に焼失した後の一〇〇年間はその姿を消してしまったのです。そしてこの有楽苑に元庵と名前を変えて復元されているのです。建国寺は明治三年、造幣局に変わりますが、大阪造幣局内には今でも沓脱石がのこっています。大塩平八郎の乱の際の高い温度で焼けたためか石は割れていますが大事に保護されています。「有楽斎沓脱石の来歴」として解説文が示されています。私はこの石を見ると如庵の来歴にもまして大塩の覚悟の深さを知る思いがします。大塩は自らは茶人ではありませんが田能村竹田・直入などの煎茶人に強い影響を与えました。特に竹田は大塩と親しくなってからは学問に対する考え方が吹っ切れ、書画に対する境地も深まり作画が一変したほどの人物でした。建仁寺の周りには大阪城与力の屋敷が並んでいますがここを焼き討ちにしたということは相当のことを考えていたのだなと思わせるものがあります。


少し引用が長くなりましたが、実は今年はじめて大阪・造幣局を訪れたこともあって・・・


■「有楽斎沓脱石の来歴」として現造幣局内で紹介されている解説文

「東照宮別当職なる建国寺の茶室如庵の席に用ひしものなり。」「其当時家康公もしばしば此茶室に入らせられ、沓脱石幾度となく踏まれしものなり。元和三年松平下総守忠明大坂に邸地を賜られしは、則ち此有楽斎の旧邸にして、忠明は家康公の孫に当れるをもって、家康公開運の地及縁故ある有楽斎の旧邸なれば、ここに東照宮の社を建てられ、其の頃より此沓脱石を茶室の傍に囲ひ、諸人の踏まさるやう保存せしを今に伝へぬ。」


もし、このことを事前に知っていたら、もっとじっくり見学してきたのにと悔やまれてなりません。


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■古暦を腰に貼った「暦張り」

前庇下の室内は勾配そのままに化粧軒裏の掛け込み天井になっていて中央には突き上げ窓が穿たれている。壁面にはつごう5カ所の窓が設けられているが、ひとつは袖壁のある土間庇に向けられているし、南側の二箇所は通常直射日光を嫌って光量は押さえられるし、さらに東壁の二箇所は竹を詰め打ちにした有楽窓であるから、光量としては十分とは言えない。しかし室のほぼ中央に設けられた突き上げ窓からの光がこれを補って余りある。むしろ周囲の窓からの光量を絞り込むことにより天窓からの光の効果をより劇的なものにしている。現代的な視点からこの茶室を眺めてみても、そこに貫かれている合理性はほとんど完璧なものと言っていい。勝手の間は三畳、炉と水屋を備える。無双窓はしっかりとした造作でここにも有楽斎の武人らしい好みが反映されている。総じて端正で利休の草庵茶室とは一線を画しており「武家の節度」を感じさせる名席中の名席。各地に写しの茶席が残る。別名「暦張りの席」。


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■有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで造っており、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。床の間の三方の壁には湊紙が張られ他はすべて下見板上まで、とにかく土壁・板が見えないように紙が貼られていました。湊紙とは和泉国(大阪府)湊村に産したところからこの名前がありますが楮に染料を加えて漉いたやや粗く強い腰紙です。茶室の腰張りに見られる濃紺の紙です。土壁を嫌って紙を貼ることは書院造りのもので、利休のころから、「わび・さび」のデザインから茶室と共に土壁をむき出しにする建て方がはじめられます。紙を貼って土も板も見せない仕方は「延書式」などに見える「・・・壁蔀以草」という神の依代の姿ですが、有楽は正伝院屋敷の中に神の宿る茶室を考えたのでした。北側の窓は、まだ有楽窓とはなっておらず単なる竹連子窓です。また、床と躙り口との位置関係は通常通りです。想像をたくましくするなら、有楽はこの第三の如庵を完成させて間もなく虹窓の手法を確立し正伝院如庵に応用したものと思われます。どんな時代でも光は神の美しい化身ですが、その光が美しく分解され虹色を呈するのは今日でも神秘的な美しさです。西洋で「光の分散」を発見したのはイギリス人のニュートンで一六六六年のことです。彼は太陽光線がガラスのプリズムを通ると屈折率の差によって赤から紫に至るたくさんの成分に分けられることを発見しましたが、有楽の場合は竹を引き詰めて間から漏れる光の屈折で虹をつくりました。


■湊紙(みなとがみ)

江戸時代に和泉国(大阪府)堺の湊村で漉かれた和紙。鳥の子系統の下等な漉き返し紙で、壁の腰張りに多く使用された。のちに摂津国有馬郡山口村(兵庫県西宮市)でも同様な紙が漉かれたが、この山口湊紙は隣の名塩村(西宮市)の抄造法をまねて粘土を混入して漉かれた。湊紙は井原西鶴などの江戸の文学作品に出てくる。

日本の家屋は木と紙でできていると言われてきました。床には紙の敷物(油団[ゆとん])、開口部の建具には襖紙や障子紙が、砂壁の腰張りには湊紙が、壁面や天井には壁紙が、部屋の間仕切りには衝立や屏風が、照明具には紙の「ほや」が使われてきました。また冬には暖をとるために紙の「かや」(紙帳)が吊られ、そして床の間の天袋・地袋の隣には、紙で表装された掛軸が飾られました。


■漉き返し

使用済みの故紙を水といっしょに煮て繊維状に戻し、ふたたび紙に漉き直すこと、またその再生紙をいう。『正倉院文書』に「本古紙」とあるのはおそらくこの紙のことで、実物らしい紙も残っている。奈良時代から行われたと思われるが、多量に漉かれるようになったのは平安時代末期で、初めは故人の遺書などを漉き返したものに経を書き、供養に用いた。やがて廃品再生がおもな目的となり、地位の低下した紙屋院(かんみいん)の主要製品となると、宿紙とよばれて紙屋紙の代名詞のようにもなった。また脱墨が不完全であるために薄墨紙ともよばれ、その雅趣が喜ばれたりもした。中世以後はむしろ下等な懐紙となり、京都の西洞院紙、江戸の浅草紙、信州(長野県)の上田紙などが庶民に常用された。泉州(大阪府)堺の湊紙も漉き返しの一種で、壁の腰張りによく用いられた。


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■篠竹を打ち詰めた「有楽窓」


紙そして竹など、本当に様々な創意工夫がなされていて驚かされます。