イサム(7)
今でこそ古墳は樹木に覆われているが、築造当初は・・・まるで高松空港の「TIME & SPACE」のような状態であった。
埴輪や様々な石組み・・・
■イサムは、広島の原爆慰霊碑を丹下健三から依頼され、無償で引き受けたが、敵国アメリカの血が流れているのでは、死者の霊は浮かばれないという根本的反対が起こり、イサムの精魂こめたデザインは却下された「慰霊碑は、報酬などとは論外な、人間としての責任と責務からの利他主義に徹した仕事にしたかった。人類が犯した罪の償いを象徴する仕事に日米の血が流れる自分が参加することへの複雑な、だが、強い渇望を感じた」それは黒御影で作った高さ4mの巨大な銅鐸とよぶべき姿であった。地上部分は、半円形の古墳のような印象のアーチで生命の誕生と死を意味するアーチは地上の2倍の長さで地下へとつきぬけている。地下は「祈念の場」とし死没者の安置所とした。イサムによれば、地上は死者を思い偲ぶ場、地下は「亡き人にとって代わる未生の子孫たちが、生まれる子宮」を暗示する場であった。古墳時代の造形、力強い存在感に満ちたものの中に温かく柔らかな造形であった。もし、実現していたならば、20世紀を代表とするモニュメントのひとつになったであろうといわれた。結局慰霊碑は、丹下健三が製作した。
■イサム設計の原爆慰霊碑が幻のものとなってしまったため、平和公園の橋が唯一広島での彼の遺産となった。平和記念公園を設計していた丹下健三からの依頼で公園の入り口への「参道」として2つの橋の欄干を1952年設計した。どちらもコンクリートでつくられた。戦争のいまいましい雰囲気が地面に静かに横たわっている。しかしその地上に生活する民の顔は大きな希望に燃えてたくましい、この2つの姿が当時の広島であった。イサムはこの印象から平和大通りにかかる2つの橋を「生と死」をテーマにデザインした。東側の「平和大橋」の欄干は太く、力強い。空に向かってそるように力強くはねあがらせた末端部分は、まるで太陽熱を吸収するソーラー反射鏡のように、球体を半分に切った形である。(朝日をかたどった半球)<昇る太陽を象徴する>この橋を、イサムは最初「生きる」と名づけたが、黒澤監督の映画のタイトルを重なったため、<生命を表わす「つくる」>に改題した。
■西側の「西平和大橋」は<別離を意味して「ゆく」>と名づけた。末端部分を和船の舳先の形とした。<人間は死んでから神様のところに精神がいってしまうということで、エジプトでもギリシャでも心は船に乗っていくといわれている。原子爆弾で死んだ人達の心は神様のところへ行ったという意味なのだ>「ゆく」は「逝く」、人間の命を意味した早速「イサム橋」「ヨシコ橋」と市民は呼んだがその評判はよくなかった。<芸術とはこの欄干のことらしい。何だかわからないところにノグチ芸術はある。>という辛辣な評があがった。
■広島にもうひとつの原爆慰霊碑を。イサム・ノグチの悲願、核廃絶のシンボルに
65回目の原爆忌を迎えた広島市に、彫刻家のイサム・ノグチ氏(故人)がデザインした原爆慰霊モニュメントの設置計画を約60年ぶりに復活させる話が持ち上がっている。原爆ドームに近い旧広島市民球場跡地が再開発されることを知った建築家の磯崎新さんが発案。ノグチ氏と縁のあった日米の関係者らがチームを組み、同市に打診している。磯崎さんは「当時はイサムさんの国籍(アメリカ)が問題になったが、時代は変わった。核廃絶のシンボルにふさわしいものになるはず」と話している。
ノグチ氏は昭和27(1952)年、広島平和記念公園の全体計画を進めていた建築家の丹下健三氏(故人)に依頼され、慰霊モニュメントの模型を制作した。黒御影石でできたアーチ型の記念碑と、階段で降りる地下の慰霊堂からなり、のちにノグチ氏は「埴輪(はにわ)から着想を得た」と記している。
しかし、この案は最終的に却下された。磯崎さんによると、アメリカ国籍のアーティストが原爆犠牲者の慰霊碑をデザインすることに反対意見が出たという。結局、丹下氏自身のデザインによる慰霊碑が記念公園に設置された。この碑については、「過ちは繰返しませぬから」と刻まれていることが後に論争を招いた。
ノグチ氏は1988年に亡くなるが、幻となったモニュメントを、「何とか実現させたい」と願っていたという。晩年に何度も相談を受けた磯崎さんは、旧広島市民球場が解体されることを知り、建築家の川村純一さんや造形作家の岡崎乾二郎さんら、ノグチ氏と縁のあった日米の関係者と建設プロジェクトを始動。失われた模型の再製作がすでにアメリカで始まっている。建設費は一般から広く募りたいという。
今年度中に解体作業が始まる旧広島市民球場は、記念公園と原爆ドームを結ぶ軸線の延長上にあり、当初の設計意図を損なわずに建設することができる。磯崎さんは「当時の日米関係では無理だったかもしれないが、現在ならば可能なはず」と期待を寄せる。今年8月6日の平和記念式典(原爆死没者慰霊式)には、アメリカのルース駐日大使が初めて出席。広島市では「再開発の基本計画は決まっていて、設置場所については改めて市民の意見を聞く必要があるが、とても有意義なお話。正式に提案いただいたら検討したい」(担当者)としている。
■模型は長い間行方不明だったが、2003年、神奈川県立近代美術館の葉山館(同県葉山町)開館に向けた引っ越し作業中、同美術館収蔵庫に眠っているのが発見された。石こうで作られている。20分の1程度の模型で高さ53センチ、幅58センチ、奥行き29センチ。丸みを帯びたアーチ型だ。地上部分と原爆死没者名簿を納める地下部分に分けるよう「地上」「地下」という指示が書かれている。2005年に専門家がノグチのものと確認した。前館長の酒井忠康・世田谷美術館館長によると、52年にノグチが個展をしたとき一緒に持ってきた可能性があるが、詳しいことは分からない。県立近代美術館は所有者を探し出した上で今年2月、正式に寄贈を受け、所蔵作品に加えた。