イサム(8)
【Miami Bayfront Park】
スライド・マントラのあるベイフロント・パークは、1995年に造られた公園ですが、サンフランシスコ湾に面したこの場所は1957年から1984年まで27年間ゴミの埋立地としてこの公園を管理するメンローパーク市及び周辺地域からのゴミを受け入れてきました。人間のエゴによってこの場所にゴミの埋立地が作られ、それによって環境が汚染されてきました。
それと同様の状態が・・・
【モエレ沼】
石狩低地帯に残る豊平川、あるいは石狩川の河跡湖である。名称は「モイレ・ペッ」(流れの遅い川)から来ている。明治の頃は沼の水域はさらに北側まで伸びており、辺り一帯が低湿地帯であった。大正時代に入ると沼の周りを乾燥させるために排水路の「アカンボ川」(現在の赤坊川)が掘られ、現在の大きさにまで縮小した。大正から昭和40年代までは周囲の水田へ農業用水を送っていたが、1966年以降、減反による影響で水田は姿を消した。その後は札幌市内より大量に出されるゴミの埋め立て地とされていた。沼は南西に口を開いた「つ」の字形をしている。口を開いた部分を雁来新川が流れているので、この川と沼に囲まれた地区は水に囲まれた地勢となる。モエレ沼は東の端でこの雁来新川から水を取り入れ、西の端で合流する。合流点から川下は、篠路新川と呼ばれる。よってモエレ沼は流速の遅い川とみなせなくもない。その場合、川の長さは約5kmである。沼と川で囲まれた地区の大部分は、モエレ沼公園になっている。その中心は設計者イサム・ノグチの着想をふんだんに盛り込んだ人工的な公園だが、沼の岸では自然環境の保全が重視されている。その分モエレ沼そのものは目立たない。
【モエレ沼公園】
■1本の電話がきっかけだった。受けたのは札幌市長。若者は敬愛するある彫刻家を熱心に紹介した。彫刻家の名はイサム・ノグチ。地球を彫刻する男と札幌市との公園づくりはこうして始まった。
■彼が札幌を訪れたとき、北海道の風景にアメリカを感じ、日本のフロンティアだと思った。札幌市が用意した場所のうち、付け足しのようにあったゴミ処分場・モエレ沼に立ったとき、彼はそこに心を奪われ、「全体をひとつの彫刻とみなした、宇宙の庭になるような公園」の可能性を熱く語っている。
■昭和63年、ノグチは基本計画を作成したが、同年12月、この世を去る。あれから10年。この5日、ノグチの夢「モエレ沼公園」がオープンした。ここにはノグチが晩年の制作拠点とした牟礼の技術も生かされている。ノグチが日本に残した2つの庭「託された思い」、牟礼のアトリエと札幌の公園。札幌市中心部から北東へ車で約30分。北海道の広大な大地に描いたイサム・ノグチの夢が「モエレ沼公園」(同市東区丘珠町)だった。「モエレ」とは「ゆったり流れる」を意味するアイヌ語で、沼は同市を流れる母なる川・豊平川の河跡湖という。この水辺に囲まれた総面積約184ヘクタールの公園設計に、ノグチは生涯で最後の情熱を傾けた。
■「全体をひとつの彫刻とみなした公園。子供が作品と遊べる場所に」ノグチがデザインしたカラフルな色合いの遊具が並ぶ「サクラの森」など、園内の各所にはこんなノグチの思いが息づいており、遊び心をくすぐる仕掛けがそこかしこに施されている。放射線状に延びる遊歩道や美しい海辺をイメージした徒渉池。イサム・ノグチの魂が宿る数々の施設のうち、ひと際、異彩を放っているのが「プレイマウンテン(遊び山)」。高さ30メートルの小高い山の南側斜面には、ピラミッドを連想させる石組みがそびえる。ノグチが晩年の活動拠点にしていた牟礼町で、20年余、制作パートナーとして共に創造の道を歩んできた石彫家・和泉正敏さんは、「ここに使われた石はすべて瀬戸内から運ばれた御影石なんです。ざっと2300トンぐらいにはなるでしょうか」、ノグチの設計を基に、瀬戸内の石と牟礼の技術が「北の大地」で結実したことを喜ぶ。「この石組みが公園全体に力や活気を与えていると思うんです。とにかく設計がすばらしい」とも。
■モエレ沼公園は札幌市が進める「環状夢のグリーンベルト構想」の一環。公園や緑地など8つの緑地帯で市街地を包み込もうとする壮大な計画に、イサム・ノグチが参画したのは昭和63年のことだった。まだ雪が残る3月、ノグチは札幌の地を初めて踏んだ。「幾つかの公園計画の中から、ノグチ先生が『私がやりたい』と選ばれたのがモエレ沼だったんです」同市造園課係長。モエレ沼公園の下には、不燃ごみや焼却残さなど約270万トンが埋められている。同公園整備は「ごみ処分場を緑の公園に変える」との一風変わった計画だった。なぜ、ノグチはここを夢実現の地に選んだのか。「人間が傷めつけた場所をよみがえらせたい。人間が汚した自然や環境を修正するのが私の仕事です」とノグチが生前から口にしていた。「自らの使命」として、モエレ沼を選んだのである。
さて、この公園に設置されるはずだった・・・イサム・ノグチの作品がある。
【サンダーロック】
■1981~82年
作品は1981年から1982年にかけて、香川県牟礼にあるイサム・ノグチのアトリエ(通称マル)で制作されました。イサムさんは「まわりを回ってどこから見てもいい彫刻だね」と語っていたそうです。その柔らかな表情からは、最後まで地球の骨―自然の石―と対峙しながら創作を続けたイサムさんの純粋な心そのものが伝わってくるように感じられます。詩人の原子修氏は、「吹き抜ける風がそこに佇み、そして石の内部からの不思議にあたたかな灯を感じ心が震えた。」と語ります。
■1998年
開催された「イサム・ノグチ展」の出品作品として、ニューヨークから札幌に運ばれました。岡山県産万成石、高さも幅も2m強、重さ11tに及ぶ巨大な作品は、自然石の作品では最大級のものです。
■2004~05年
もともとは市が購入し、モエレ沼公園に設置する予定だったが、約1億4千万円と高額のため、2005年3月まで年間約670万円で借りていた。契約は3月末で失効したが、同公園のグランドオープンを記念した「イサム・ノグチ展」が同美術館で7月から開かれることもあり、財団からさらに1年間、無償で借りている。
■2004年10月15日
イサム・ノグチの彫刻「サンダーロック」を札幌に永久展示する為の署名活動宣言
[主旨]
1.札幌は、彫刻「サンダーロック」の第二のふるさとであり、札幌に永久展示されることを希望します
2.彫刻「サンダーロック」は、札幌に在り続けることで世界と札幌をつなぐかけ橋となり、イサム・ノグチをめぐる人たちとの交流が育まれます
3.彫刻「サンダーロック」がもつ温もり、柔らかさは雪国の大地でこそ大気と溶け合い発光できるものと信じます
4.イサム・ノグチ設計の札幌モエレ沼公園に彫刻「サンダーロック」が存在することでさらに魅力を増し、世界に誇るイサム・ノグチ・ワールドが出現します
5.私たちは、彫刻「サンダーロック」の真の魅力を理解し、札幌に在ることが相応しいと確信しています。
■しかし、札幌市は財政的な事情から、財団への返却を決定しました。
■2005年5月
故イサム・ノグチの作品を管理する米ニューヨークの「イサム・ノグチ財団」は、ノグチが設計したモエレ沼公園のデザインを監修するため、札幌入りした。同財団の貞尾昭二理事らが19日、札幌市役所を訪れ、同財団が市に貸与している芸術の森美術館(南区)にある「サンダーロック」の展示状況、「おりの中にあるようで、作品を殺している」と指摘。モエレ沼公園を監修する立場から「公園に移設しないのでは(公園は)画竜点睛を欠くことになる」として、オープン記念式典が行われる7月1日までの移設を強く求めた。移設には多額の費用がかかることから、市は対応に苦慮している。市では移設コストは数100万円に上るとみている。
■2006年8月
イサム・ノグチの《サンダーロック》が美術館から旅立って行きました。1998年のイサム・ノグチ展でイサム・ノグチ財団から借り受けて以来、美術館中庭の顔として親しまれてきた作品です。彼の遺したモエレ沼公園という遺産もあり、札幌はノグチとはゆかりの土地。市での買取も検討されましたが叶わず、ニューヨークへ移転することとなりました。巨大クレーンで吊り上げられて、運搬用の台座に乗せられ・・・クレーンの設置なども含め、丸2日間の大仕事。そして、船に揺られてニューヨークへと帰っていきました。
とても寂しいことですが・・・まるでイサム・ノグチ「宿命の越境者」と重なります。