ぽかっ(66) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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かもめが翔んだ日(2)


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-めいじ1

■デザインの世界でも話題の「meiji」ロゴのリニューアル、世界的なブランディング・デザイン会社のランドー東京オフィスが手がけました。

1906年創立の明治製糖を起源とする明治製菓株式会社と明治乳業株式会社は、90年以上にわたり、「明治ブランド」という共通の財産を、菓子と乳業というそれぞれ独自の事業領域で発展させてきました。明治製菓は菓子業界、明治乳業は乳業界においてそれぞれリーディングカンパニーの地位にありましたが、日本の食品ビジネスをとりまく市場環境は、「ライフスタイルと食生活の多様化」、「健康意識の向上」、「食の安全意識の高まり」など、大きく変化しています。両社は、食と健康へのニーズの変化に対応し、より大きな成長機会を獲得するために、経営統合を決定しました。経営統合によって新会社の連結売上高は1兆1000億円を超え、キリンホールディングス、アサヒビール、サントリー、味の素に次ぐ業界5位の総合食品グループが誕生することになりました。両社は共通の起源をもつ企業でしたが、さまざまな歴史的背景から、それぞれ独自の「明治ブランド」のCIデザインを展開していました。両社が展開する2つの「明治ブランド」は、乳幼児から高齢者まで、幅広い世代のお客さまの毎日の生活に欠かせない身近な「菓子」、「乳製品」、「栄養機能食品」、「医薬品」など、各分野の商品を通じて毎日1000万人を超える人が手にすると言われるほどです。加えて、明治製菓は亀倉雄策氏、明治乳業は五十嵐威暢氏という20世紀の日本を代表するグラフィックデザイナーによるデザインであり、お客さまや両社社員の愛着にはたいへん強いものがありました。しかしながら、新生「明治グループ」は、これまでにない新たな「おいしさ・楽しさ・健康・安心」の世界を拡げ、お客さまの日々の生活充実に貢献することを目指して、「明治ワンブランド戦略」への決断を行ないました。本プロジェクトには、ニューヨーク、パリ、東京、のランドーグローバルチームが参画しました。明治製菓、明治乳業の両社が築き上げてきた「明治らしさ」を継承しつつ、「価値の創造」をより一層拡大することを意識しました。マスメディア、ウェブサイト、パッケージデザインなど、さまざまなブランド接点での視認性を高めるとともに、将来予想される「栄養機能食品」や「医薬品」などの事業会社化にも耐えられるよう、詳細にわたるシミュレーションが行なわれました。400案を超えるデザイン案から選ばれた、新しい「明治ブランドマーク」は、ふくよかで柔らかな書体、親しみのある小文字を使用することによって、「食と健康」の企業グループらしい明るさと、お客様一人ひとりとのあたたかいつながりを表現しました。「iji」の造形には、人々が寄り添い支えあう姿を託しています。ブランドカラーはレッド。躍動感や生命の喜びを感じさせる色であり、人が生まれて最初に知る色でもあります。赤ちゃんからお年寄りまで、あらゆる世代の人々のそばにあって、愛され続ける存在でありたいという思いを込めました。2009年4月1日、共同持株会社「明治ホールディングス」が設立されるとともに、新生明治グループの顔となる「明治ブランドマーク」の展開がスタートされました。


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■「ヒロシマ・アピールズ」

このポスターは、1983年に、広島国際文化財団の依頼で亀倉さんが作った作品です。
1996年の夏に、国立近代美術館で開かれた亀倉さんのポスター展の会場で、このポスターについて亀倉さんはこう語っています。

「財団の人がきて、『原爆キノコとかガイコツとかは、もう飽き飽きしてる。きれいで恐ろしい、こわいけどみんなが部屋にかけられるようなものができないでしょうか』っていう。で、はて、どうしよう、蝶々を燃やしてみようかなって、思いついたわけ。日本とアメリカで合同展覧会をやったんだけど、アメリカがずいぶんショックを受けたわりには、日本では新聞にもあまり取り上げられなかったし、話題にもならなかった」
のちにこの作品は、国際ポスタービエンナーレ展でグランプリをとりましたが、自作を語るときの亀倉さんはいつもこんなざっくばらんな調子で、むずかしいことはいっさい言わない人でした。

「外国人はなにかと理論的だけどね、理屈を言いたがる。国際コンペの審査員なんてやってみると、それがよくわかるんです。僕なんかはグルグルって一通り見れば、これとこれだなって、だいたいわかっちゃうんだけど、外国人の審査員というのはなかなか終わらない。僕がお茶飲んで待ってると、五、六人で固まって、一つひとつについてワンワン討議しながら見ていくわけ。でも、二時間も三時間もそんなことやってて、やっと票を入れたと思ったら、僕が入れたのと同じのが入ってる」
「日本人は、やっぱり勘がいいんだね。瞬間的にパッと閃く。作り方も同じで、向こうは理屈が先に立つけど、僕はそんなことなんにも気にしない。好きか嫌いか。なんとなくいいか、なんとなく気持ちが悪いか。よくないのはどこがよくないのかはわからないけど、とにかくよくないの。で、そんなふうにして僕が作ったものを、外国人はまた、難しく説明してくれるんだけど」
「燃え落ちる蝶」も、亀倉さんに理屈はない。「思いついた」というより、亀倉さんの中に蓄積されている何かが、亀倉さんに思いつかせたのです。

「ヒロシマ・アピールズ」は、グラフィックデザイナーの団体、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)と広島国際文化財団によるプロジェクトです。はじまりは1983年。1989年まで、JAGDAのメンバーであるデザイナーが「ヒロシマの心を、言葉を超えて伝える」ポスターを制作、その後、2005年から活動が再開され、現在まで毎年1枚ずつ、制作されています。


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■「離陸着陸」は、滝口修造がグラフィックデザイナーを評して用いた言葉で、「飛行場は飛び立って自由に飛び回ることが出来るが、必ず飛行場に着陸しなくてはならない」という意味。

アーティストは自由に舞う蝶々だが、デザイナーは飛行機であって空を飛び回りながらも最終的には空港にしっかり着陸しなければならない。つまり、デザイナーはアイデアや表現のイメージをどんどん高く遠くへ広げていかなければならないが、必ず目的地への着陸(問題の解決)をしなければならない。混乱した海や山の上空を高く飛び、北へ、南へ飛び回るため、そして無事に着陸するため、各種の専門家とのコラボレーションがますます大切になってきていると私は思います。デザイナーもエンジニアも、「ルールの集合で機能する」部分と、「クリエイティブな飛躍」の両方を兼ね備えていく必要があるのです。


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■『かもめのジョナサン』(Jonathan Livingston Seagull)

リチャード・バックの小説。1970年にアメリカで出版され、当時のアメリカのヒッピー文化とあいまって、口コミで序々に広がり、1972年6月以降に大ヒットした。主人公のカモメ、ジョナサン・リヴィングストンは、他のカモメ達が餌をとるために飛ぶことに対して、飛ぶという行為自体に価値を見出してしまう。ジョナサンは食事をするのも忘れ、速く飛ぶ事だけのために危険な練習を重ねる。そしてその奇行ゆえに仲間から異端扱いされ、群れを追放されてしまう。それでも速く飛ぶ訓練をやめないジョナサンの前に二匹の光り輝くカモメが現れ、より高次の世界へと導かれる。「目覚めたカモメ達」の世界のなかでジョナサンはより高度な飛行術を身につけ、長老チャンから「瞬間移動」を伝授される。そしてある日、弟子を連れて下界に降り、カモメの人生は飛ぶことにあるという「思想」を広めようと試みるが、下界のカモメからは悪魔と恐れられて・・・。


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■「かもめはかもめ」作詞:中島みゆき/作曲:中島みゆき/編曲:高橋諭一/唄:研ナオコ


あきらめました あなたのことは
もう 電話も かけない
あなたの側に 誰がいても
うらやむだけ かなしい
かもめはかもめ 孔雀や鳩や
ましてや 女には なれない
あなたの望む 素直な女には
はじめから なれない
青空を 渡るよりも
見たい夢は あるけれど
かもめはかもめ
ひとりで空を ゆくのがお似合い


◆すくらんぶるアートヴィレッジ◆(略称:SAV)    若い芸術家たちの作業場・みんなの芸術村-めいじ6

1960年代はアメリカとソ連が、宇宙開発と言う名目でおたがいの技術を競い合っていました。その中で1963(昭和38)年.6月16日にソ連のボストーク6号で女性として始めて宇宙に旅立った宇宙飛行士テレシコワ少尉は大いに騒がれました。そのテレシコワが宇宙から送ってきた通信の最初に述べた「私はカモメ」と言う言葉は流行語にもなりました。しかし、この「私はカモメ」と言う言葉は、テレシコワが宇宙から地球軌道上を周りながら述べた感想を、詩的に表現した物だったワケではありません。実はソ連の宇宙船ボストークにはそれぞれニックネームが付けられていて「1号」「2号」などと呼ぶ代わりにこちらが使用されており、テレシコワが乗っていたボストーク6号は「カモメ/チャイカ」と呼ばれていたのです。つまり、テレシコワは地上との交信の際に「こちらはボストーク6号」と言う意味で「ヤーチャイカ/こちらはカモメ号」と言っただけなのです。それをさらに日本語訳する時に「私はカモメ」などとしてしまった為に大いなる誤解を招いてしまったのです。