いろは蛙辞典(5)
■井の中の蛙(いのなかのかわず)出典:荘子「秋水篇」
黄河の神、河伯が初めて海へ行ったときのこと。海のあまりの大きさに大変驚き、北海(今の渤海)の神である若に、「今まで黄河が一番大きいと思っていたのに、こんなに広いモノがあるとは知りませんでした。」と言いました。それに対して若は、「井戸の中のカエルには、海のことを話しても分かりません。それは、カエルが狭い環境に捕らわれているからです。夏の虫には氷のことを話しても分かりません。それは、彼らは季節というものは、夏だけだと思いこんでいるからです。つまらない人物には、真理を説いても分かりません。それは、その人たちがありきたりの教えに縛られているからです。いま、あなたは狭い川の岸を出て、大きな海を見ました。それであなた自身が無知であることを自覚したのです。だからあなたには大きな真理について語ることができるようになりました。」と言いました。
(白文)井鼃不可以語於海者拘於虛也、夏蟲不可以語於冰者篤於時也、曲士不可以語於道者束於教也。(「鼃」はアマガエル。「蛙」とするテキストもあり)
(訓読文)井蛙は以って海を語るべからず、虚に拘めばなり。夏虫は以って氷を語るべからず、時に篤ければなり。曲士は以って道を語るべからず、教に束わるればなり。
(現代語訳)井の中の蛙と海のことを語ることはできない、虚(くぼみ)のことしか知らないからである。夏の虫も、氷のことを語ることはできない、夏の時季しか知らないからである。曲士(心のよこしまな人、あることに秀でる人とも)と「道」の事を語ることはできない、ある教条にとらわれているからである。
■ある古井戸に一匹の蛙が住んでいた。蛙が井戸のそばで遊んでいると、一匹の海がめに出会った。蛙は得意げに海がめに言った。
「僕が住んでいるこの井戸は楽しいとこだよ。井戸の縁からジャンプして遊ぶんだ。ひとしきり遊んで疲れたら井戸の中の壁の窪みで休めばいい。鼻だけ出して、水にぷかーと浮かんでいるのも悪くないね。やわらかい泥の中を散歩するのなんて、ほんと最高だね。他の、蛙やオタマジャクシは僕にはかなわない。なんてたってここは僕の井戸なんだから、自由自在なんだ。君もいつでも遊びに来てよ。」
ところが、海がめが井戸に左足を突っ込んだだけで、もう右足はつかえて入らない。彼はためらって後ずさりすると、海について蛙に語った。
「海はどこまでも広くて、どこまでも深い。昔禹王の頃、10年間に9年もの間、大雨が降りつづいたけど、海の水はほとんど増えなかった。それから後湯王の頃、8年間のうち7年間もひでりが続いたけど、海の水はちっとも減らなかった。海に住むのはほんとに楽しいよ。」
蛙はびっくりして、口もきけなかった。
■井蛙不可以語於海者 而知空深
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」ですが、「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」というのもあります。NHK大河ドラマ「新撰組」にて香取慎吾演じる近藤勇が、川平慈英演じるヒュースケンに語る言葉です。さらに、「井の中の蛙大海を知らず、されど地の深さを知る」というのもあります。
■八波一起プロデュース「井の中の蛙天を知る」
(あらすじ)昭和41年、福井県鯖江市にある光道園に視覚障害者を主とした重複障害者を対象とするライトセンターが、全国初のケースとして開設された。当時、初めて、福祉の谷間と言われていた分野に陽が当てられたのである。今まで取り上げられる事の出来なかった人達が全国各地からこの施設に訪れた。青森の工藤昇太もその中の1人であった。何も出来ない昇太に同じ境遇を持つ先生の山田は一人の人間として接し、昇太の心を開いていく。そんな中、生徒達が日頃の作業の他にもっとやりたいものがあるのではないかと考えていた。そんなある日、音楽が大好きな事に気づきバンドを作る事を提案。しかし、それは、無謀であるかのように思われた。全盲で脳に障害がある為、楽譜を読む事も、音を覚える事もままならなかった生徒達。苦労の連続の末、初めは、小太鼓、タンバリン、マラカスなどのリズム楽器程度であったが、年々1楽器ずつ増えていき、ついにすばらしいバンドが出来上がったのである。皆んなの音がバラバラでその音をミックスする事の大変なバンドはミックバラーズと名付けられた。彼らの練習は毎日毎日何百回となく繰り返したたき込むものであった。実際、彼らの音に対する執念は、凄まじく、年を重ねるに従い、曲が出来る喜びを身体全体で表しついには、無謀かと思われていた演奏会を開くまでに上達した。それまでになんと10年の歳月を費やしていた。そして彼らの夢でもあった、ふるさと公演が始まった。昇太とミックバラーズは、はたして家族の見守る中、どんな演奏を披露するのであろうか。又、その時、家族は何を感じるのか・・・。