勝手にSFC(サクラ・ファン・クラブ)5
■焼け野原となった日本は、そこから立ち直る・・・1964年の第18回東京オリンピックを開催することになった。このときのオリンピックポスターは、4連作である。第1号ポスターは1961年2月に作られた。枚数は10万枚。このデザインは大会エンブレムとしても使われ、文字は原弘、全体デザインは亀倉雄策が行なった。すでに40年以上経っているにもかかわらず、全く古さを感じさせず、シンプルで斬新かつ静粛なデザインといえる。亀倉はこのデザインについて「単純でしかも直接的に日本を感じさせ、オリンピックを感じさせる、むずかしいテーマであったが、あんまりひねったり、考えすぎたりしないよう気をつけて作ったのがこのシンボルです。日本の清潔な、しかも明快さと、オリンピックのスポーティな動感とを表してみたかったのです。その点、できたものはサッパリしていて、簡素といっていいほどの単純さです。」と自ら語っている。このポスターのデザインとなった大会マークの正式な色は、当時の新聞によると「日の丸が赤、五輪と文字が金色、テレビなどに使うときは日の丸を灰色、五輪と文字は黒色、カラーテレビや多色刷りの時には五輪に五色使ってもよい」となっているが、五輪に五色使ったものはほとんど見かけたことがない。テレビのところの色説明について、あえて「カラーテレビ」とことわっているところは、その当時の時代背景が感じられる(昭和30年頃、まだ白黒テレビが全盛でカラーテレビ・カー・クーラーの3Cが消費生活の目標になっていた)。
■第2号ポスター(9万枚作成)が発表されたのは、1962年5月25日で、ディレクター・村越襄、撮影・早坂治。モデルは、リッカーの潮喬平選手(第16回メルボルン大会出場)と岡本政彰選手、東急の久保宣彦選手に立川空軍基地の元アメリカ陸上競技選手を交えた6人で、3月中旬の寒風吹き荒む国立競技場で午後6時から3時間、約80回もスタートをやり直して撮られた写真から選ばれたものである。制作依頼をされた当初、亀倉は1号ポスターを凌駕するデザインポスターを作る自信がなく、そのため、迫力のある、そしてデザイン的感覚ある村越、早坂両氏に白羽の矢を立て、粒子が荒れているのは「迫力を出すため、この荒れを計算に入れてつくった」(亀倉記)そうだ。このグラビア多色刷りB全版のポスターというのは日本初のものであった。
■第3号ポスターは、1963年4月22日に発表された(7万枚作成)。制作スタッフは第2号ポスターと同じであった。撮影は改修前の東京体育館屋内プールで行われ、モデルはアメリカのウィリアム・ヨージック選手(第16回メルボルンオリンピックのバタフライ金メダリスト)、古川勝選手(第16回メルボルンオリンピックの男子200m平泳ぎ金メダリスト)などいろいろ試された末、早稲田大学の岩本光司選手で決定した。当時、亀倉は「1号を真ん中にして、2号を左に、そして3号を右にして並べると最も効果的である」と語っている。
■最後の第4号ポスターは、亀倉と早坂によって作成され、東京オリンピックの開催年である1964年4月10日に発表された(5万枚作成)。これまでのポスターの躍動感と異なり、夕暮れの静かな、そして自然な趣を醸し出しており、はじめて会期も印刷されている。モデルの聖火ランナーは、亀倉から「最もスポーツマン的均整のとれた体格の持ち主」と折り紙をつけられた順天堂大学陸上競技部の田中良明選手(走幅跳)で、夕暮れを背景に寒風の3月11日、荒川土手で10本のトーチを燃やし、50本近いフィルムを使って撮影された。亀倉は「聖火リレーという宗教的行事の厳粛な感じを出すのに苦労した。私としては会心の作だと思う」と語っている。サイズは1号が101×55cm。2号以降は101×72cmである。
持参したクレパス類は、サクラさんにすべて寄贈することにした・・・
そのお礼にと、こんな素晴らしい専門家用クレパスをお土産にいただいて・・・ますます、私はSFCに染まったのです。