イチジク(8)
前回、柄澤齊さんの作品を掲載しましたが・・・
■凸版…紙版画、木版画
インキのつく面を凸状にした構造のものをいう。木版画には板目木版と木口木版があり、板目木版はホウやサクラ、イチジクなどを用い画線部分を凸部とする陽刻と反対に白抜きの凹線を生かす陰刻とがある。木口木版はツゲなどを用い、鋭い刀による×や線の繰り返しで凹部を作り、複雑な調子を表現するのは特徴。印鑑は木口木版である。木口木版は主に西洋で本や新聞などの挿絵に用いられた。板目木版は日本の浮世絵版画がその代表である。
版木としてイチジクが用いられるという解説がありました。日本では考えられないことですが・・・
■「(ザアカイは)それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。」(ルカ19:4)
いちじく桑は、いちじくの仲間ですが、華奢な木ではなく、ザアカイが登ったのもうなずけるたいへんがっちりとした木です。現在でもエリコの近くに、ザアカイが登ったと伝えられる大きないちじく桑が保存されています。湿気に強い木材として広く用いられ、いちじくよりは味の劣る実をならせ、その実は、貧しい人々に消費されました。また、常緑樹で、大木になるので、木陰を提供するために、道端に植えられることもありました。アモスが預言者としての召命を受ける前には、このいちじく桑を栽培する農夫として働いていました。(アモス7:14)
いちじく桑は天井や棺桶などの木材を取るために栽培されてきた。しかしそのままにすると根元がねじれ枝が多く出るため、背が低いザアカイでも登ることが出来たのだろう。
浄福のアモスは言う、「わたしは預言者ではなく、預言者の弟子でもなく、シカモアの樹を〔虫を取り出すために〕抉る〔"knizein"〕山羊飼いにすぎぬ」〔アモス、第7章14〕。山羊飼いは山羊の番をする。されば、アモスは美しくも、キリストの顔つきをしている。だから、「シカモアの樹を抉る」には理知的な意味があり、ザアカイはシカモアの樹(sykomorea)に登った〔ルカ、第19章4〕。
周知のとおり、シカモアの樹を抉る前のコアリ(sknips)は、その内にひそむいわゆる蛆(konops)であり、闇の内に住むものたちで、光を見ない。彼らはお互いに「広い場所に住みたいものだ」と言い合うが、闇の中に暮らしている。ところが、シカモアの樹が抉られて〔外に〕出てくると、太陽・月・星辰の明るさを眼にして、お互いに言い合う、「シカモアの樹が抉られる前、わたしたちは闇[と死の陰]の中に暮らしていた」〔参照、マタイ、第4章16〕。こうして、〔シカモアの樹は?〕第一日目に抉られ、三日目には立ち現れて、万物の食べ物となったのである。
されば、わたしたちの主イエス・キリストの脇腹は槍の穂先に抉られて、血と水がほとばしり出、三日目には、主は死者たちの中から立ち上がり、わたしたちは新しき光を見たのだが、それは、あたかもコアリたちが、シカモアの樹が抉られて、不死の光を見たがごとくである。[こうして、山羊たちが悔い改めに顔を向けるのは、その毛から弔いの着物を織るからであり、「荒布をまとい灰をかぶって」と彼〔マタイ?〕は言う、「彼らは悔い改めた」〔マタイ、11章21〕]。「闇の中に暮らしている民は大いなる光を見、死の地、死の陰にいる人たちに光が昇った」〔マタイ、4章16〕。シカモアの樹が抉られると、三日目にして食べ物が生じる。そのように、われらが主イエス・キリストも、脇腹を抉られ、三日目にして死者たちの中から立ち上がり、わたしたちみなの命と食べ物となられたのである。
聖書によると日本で見慣れたイチジクと西洋のものとはずいぶん違いがあるようです。
■エジプトイチジク(Ficus sycomorus)〕ヘブライ語shiqmahギリシア語sykomorea
旧約聖書の6箇所に登場しているが、シカモアの樹=エジプトイチジク〔日本語聖書では「イチジククワ」と訳している〕は、エジプトやパレスチナではとくに有用樹種とされ、クルミの樹の高さほどに生長し、枝を大きく広げて心地よい木陰を作るので、街路樹としても植えられている。葉は卵形で香りを持ち、裏面には綿毛を備える。幹からじかに伸びた短い枝の上に、果実を房状につける。食用にする果実には、収穫の3~4日前に鋭い刃物や指爪であらかじめ傷をつけておく。エジプトイチジクの樹は常緑であり、時期は一定ではないが、年に数回果実をつけるので、貧しい人々にとっては、たえず食物をもたらしてくれる大切な樹である。材は多孔性で著しく耐久性に富み、湿気や熱によって傷むことがない。古代エジプトのミイラを収めた柩は、エジプトイチジクの材で作られており、埋葬されて数千年を経た現在でも、まったく損傷ない状態で発見されている。新約聖書でザアカイが登ったという「いちじく桑の木(sykomorea)」もこの樹(Ficus sycomorus)である。
東アフリカ原産で、B.C. 2000年頃カナンに来たという説も、イスラエルの海岸沿いに昔からあったという説もある。常緑であるが、厳しい冬には落葉する。大木になり、高さ15m、葉冠は20m、幹の太さ1~2mにもなるものがある。葉はイチジクに似ず、むしろ桑のような形をしている。実はイチジクより小さく、丸みがあって、主幹や古い枝に直接つく。夏に熟し、昔は貧しい人に食べられ、売られてもいたが、イチジクのように美味しくはない。イチジク同様、陰花果で内側に雌雄の小さな花があり、小さな虫が頂にある小穴から出入りして受粉する。しかしこうするとイチジク同様虫コブができて食べられなくなるので、昔からヘブライ人は特殊なナイフでイチジククワを刺激して結実させて食用にした。しかしイチジククワは実のためにではなく、木材を取るために栽培されてきた。材質は軽く、多孔質なので天井に向いているし、古代エジプトではこの木が湿度と腐敗に強いので棺として使用していた。イチジククワはそのままにしておくと根元がねじれて枝がたくさん出てしまう。ザアカイは小さかったが、イチジククワなら容易に登ることができたに違いない。しかし木材として使用するためにはこのような枝を払わなければならない。預言者アモスがやっていたのはこのような仕事だったのであろう。イチジククワはイチジクに比べると寒さに弱い。詩篇78_47はこのことを表している。実際にイスラエルでイチジクはガリラヤやゴラン高原などにも生えているが、イチジククワはイスラエル南部や温暖な海岸地帯に自生している。海岸の砂の所にあるイチジククワは、砂の移動で根がまるで歩いている足のように地上に出ている。ルカ17_6の「主は言われた、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」」の桑は、イチジククワを表しているであろう。イチジククワから取れるラテックスは火傷、癌、四肢の硬化、腫瘍、いぼなどに用いる。これも蛋白質分解酵素ficinを含むといわれる。葉と実は牛の乳を増加させるために与える。エチオピアでは根を腸チフスの予防に、レバノンではラテックスを皮膚の剥離や破傷風の予防に、また血液毒、蛇毒などに使用する。東アフリカでは下剤や咽頭炎などに用いている。『死者の書』第109章には、天空の東の門には一対の「トルコ石でできたシカモアの樹」があり、太陽神ラーはその間から毎日出てくると記されている。シカモアの樹はとくに三人の女神、ヌト、イシス、ハトホルの現れと考えられていた。ハトホルは「シカモアの女主人」と呼ばれるほどである。ハトホルかヌトらしい女神の腕がこの樹からのびてきて、死者に食べ物と水を与えるシーンは数多く見られる。
墳墓や神殿が石材を用いて頑丈に築かれたのに反して、一般の住居は日干しれんがや木材など耐久力の乏しい材料でつくられ、王宮といえども例外ではなかった。現存するものは少ないが、第18王朝のアメンヘテプ3世がテーベの西マルカタに造営した宮殿や、職人の集合住宅の跡が残っている。丸彫り彫刻には神像をはじめ、神殿、墳墓に安置した王や貴族の像、副葬品の小形人物像などがある。その材料は石、金属、木、象牙(ぞうげ)、陶器などで、石には閃緑(せんりょく)岩、花崗(かこう)岩、角礫(かくれき)石などの硬質のもの、石灰岩、砂岩、アラバスターなどの軟質のものがあり、金属は主として銅および青銅、木材はアカシア、イチジクなどのエジプト産のもののほか、針葉樹の輸入材が多く用いられた。
■イヌビワ(犬枇杷、Ficus erecta)
クワ科イチジク属の落葉小高木。別名イタビ、姫枇杷。果実(正確にはイチジク状果という偽果の1種)がビワに似ていて食べられるが、ビワに比べ不味であることから「イヌビワ」の名がある。なお、ビワはバラ科で、本種とは近縁関係にない。
■Ficus variegata
■Ficus Carica
■figowe drzewo
詳しいことはわからないが、いろいろなイチジクがあって、しかもかなりの大木である。木版画の版木に使用されても不思議ではなさそうである。
さらに・・・イチジクの樹液(汁)がテンペラに用いられたという解説も発見した。
■テンペラ画
TEMPERA
油と膠質が混じり合った乳剤(エマルジョン)で顔料を練り合わせた絵具。「混ぜ合わせる」という意味のイタリア語「テンペラーレ」(Temperare)に由来する。乳剤には、黄卵または、卵白を主媒剤とし、蜂蜜、イチジクの樹乳など天然のものと、カゼインと膠の混合溶液のような人工のものがある。歴史的には、卵テンペラが最も代表的なものであった。練り合わせ剤(メディウム)を使わないフレスコが広く普及した14世紀以降、フレスコと区別するため、メディウムを使う絵画を広くア・テンペラと呼んだが、油彩画が絵画の主要な位置を占めるようになった16世紀以降は、従来の卵を用いたものをテンペラと称するようになる。テンペラは乾きが早く、じょうぶで耐久性に富む絵具層をつくり、色調は油彩画よりも明るく鮮明である。しかし、色面の平塗やぼかしの技法には不向きで、線描的な性格を持っている。そのため、その欠点を補うためしばしば油彩画と併用して使われる。