「つげ義春」研究家の新たな発見(2)
■あまり知られていない写真ですが、「庶民御宿」の1カットととても似ているものが発見されました。2005年8月12日、コミュニティ「つげ義春」に投稿されたものです。投稿者はSM雑誌にイラストを描く絵師で、その仕事柄このような写真が発見できたようです。この写真が『庶民御宿』の元になったのは間違いないように思われます。
※この画像は、性行為に関するものなので掲載しません。
■さらに、「Norton」という海外の出版社の写真集「Elliott Erwitt "Personal Exposures"」キャプションには「San Miguel de Allende, Mexico, 1957」とある。「ねじ式」におけるシュルレアリスムを象徴する音楽隊のシーンがこの写真集を下敷きにしているという発見情報も得られました。
■元青林堂社長・山中潤さんが「つげ先生はこんな外国の写真まで研究されてたのですね/なんだか知恵の輪が解けたような/ねじ式がまた新鮮に見えたような/嬉しい気持ちです」と語っておられます。
■つげ義春さんが写真の一部を無断拝借したことによって、その評価が下がることはまずありえない話ですが、世間で盗作疑惑が結構盛り上がることもあり、このような芸術と芸術が互いに響きあい、織り成す豊かな文化を大切にしていきたいものです。
■前回に紹介しましたが・・・北井一夫さんの写真初期の完成型とも言える『いつか見た風景』は、旅の途中で拾った風景に流れているなんとも不思議な時間、つげ義春の世界にも通じる独特の「間」を感じます。『つげ義春/流れ雲旅』という本で、ともに下北半島を旅した間柄がそうさせるのかもしれません。
■同じく、登場したアイヌ・知里高央 (たかなか)さんに関して追記しておきます。
(1)娘・むつみさんは、高央の「アイヌ語絵入り辞典」の序文で「私の家系はチリパとカンナリキの血を引くアイヌです。」と言っています。知里高央の「アイヌ語絵入り辞典」は「アイヌ語→日本語」は勿論のこと反対の「日本語→アイヌ語」もあるので入門には便利です。
(2)姉・知里幸恵さんは僅か20才で亡くなってしまうのですが、金田一京助との出会いで、アイヌ語への誇りに目覚め、14編の「神謡集」を著しながら金田一邸でアイヌ語を金田一に教えました。この間の両者の、恐らく親子のような、慈しみが金田一の書物の各所に記されていて、才媛の夭折が悔やまれます。和人に混じって学んでもトップの成績であったといいます。
(3)「神謡集」は1922年(大正11年)3月、19歳の幸恵が母語をローマ字で、その翻訳を優麗な日本語で綴り残したものです。岩波文庫本は見開き左綴じという装丁で、左ページに母語のローマ字表記、右に日本語訳が掲載されています。
幸恵の怒りと切々と祈るがごとく綴ったその言葉で始まる序文は身震いがします。 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。 あまりにも有名なアイヌ神謡集冒頭の物語「梟の神の自ら歌った謡」の書き出しです。しかしそれ以上に感動を呼ばずにおかないのは、その「序」です。「銀の滴(しずく)降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら流(ながれ)に沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が今の貧乏人になっている様です。