二人はあわてて、図書館の中へと引き返した。受付の女性は何が起こったのかと驚き、あわてて二人の後を追いかけた。
「どうかされたんですか」
「すみません、急に調べ忘れたことを思い出したもので・・・」
「そうでしたか、びっくりしました。それで、何をお探しですか?」
二人は声をそろえて、
「阿修羅です」
「そうでしたか、それならこちらへ」
■古代ペルシャの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラ・マズダーに対応するといわれる。それが古代インドの魔神アスラとなり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天にも住めないといわれる。
本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダでは最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。
仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。
興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。
姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。
奈良県・興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)や、京都府・三十三間堂の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。
■一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。宗教学的にも、ヴェーダ文献においてアスラの長であるとされたヴァルナとミトラは諸側面においてゾロアスター教のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。
仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。
アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。
「阿修羅って、善と悪をいったりきたりね」
「これってね、太陽と月・昼と夜、光と影の関係みたい」
「このエジプトの神々を見てよ」
「これこれ、このスカラベというのよ」
「日本では、ふんころがしってやつね」
「鳥なら空を飛んだりして、神にふさわしいじゃない」
「そっか、ふんころがしが神なんておかしいわね」
「でしょ、これは空と大地の関係だと考えれるわ」
「なるほどね」
「こんな話聞いたことあるわ、ふんころがしがいなかったら大地は糞だらけになっていたって」
「すごいわね、大切な仕事をしてくれてるわけね」
二人は同じことを考えていた。「まよ子」が口火を切った。
「人間って、都合のいいように神だの悪魔だのって作り出してる。世界をかけめぐった遊牧民たちは、それを全部目の当たりにしてきたわけね」
「そう、そして私たちが生きていくうえで、すべてのものやことが大切で、ありのままを受け入れることが重要だと・・・」
「むずかしいことだけど、それを祖父・たっちゃんは伝えたかったんじゃないかなあ」
図書館の窓から、夕暮れの赤い太陽が二人を照らした。
・・・つづく
孫を連れて動物園に行ってきました。
子どもは、動物が好きです。
不思議な色や形・・・
それらは、自然を受け入れ、その中で生きていくために必然のこととして身に着けた色であり形である。
これらの動物の横顔をながめながら・・・
孫の手を引き、このような機会に恵まれるのは、まさしく「子ども」の存在であると実感する。
失いかけた「こども心」「あそび心」を取り戻すことは、すなわち「自然の心」でもある。