まんまと「まよ子」の術中にはまってしまったことを、千恵子は悟った。
「仕方ないわねえ、もう少し大きくなってからと思っていたんだけど」
と前置きをして、父・達人がこれまで歩んできた軌跡を、書斎の本や資料をひもときながら語り始めた。
浮世絵の話に至っては、大粒の涙を禁じえなかった。千恵子にとって、この浮世絵はまさしく誕生の鍵でもあったのだから。
安子は、文箱のからくりを教えてもらい、ゆっくり一枚一枚の浮世絵を床に並べて見た。話には聞いていたが、実物を見るのは初めてであった。
「よっこ、すごいね」
「うん、私もびっくりした。そして、たっちゃんのこと・・・」
「嫌いになった?」
千恵子は意地悪く「まよ子」を凝視した。
「たっちゃん・・・もっと好きになった」
本心から「まよ子」はそう思った。安子も、会ったことも見たこともない達人のファンになってしまった。
「キャパの本、見つけたわよ」
安子が歓声をあげた。
「これ、二人にあげるって山野さん言ってたよね」
「よっこ、山分けしよう」
「馬鹿、これ全部安子のものよ」
安子は嬉しかった。「まよ子」の申し出を素直に受け止めた。
「そのかわり・・・あのカメラ見せてよ」
「そっか、忘れてた」
二人はカメラをいじりながら、キャパの本を楽しそうに眺めていた。
修から携帯電話に連絡が入り、千恵子は二人を残して静かに書斎を出た。
「千恵子、まだ安子さんは家にいるかい」
「ええ、どうかしたの」
「大事件、お父さんの“木場”さんにお会いしたんだよ」
その頃二人は、母がいないことを知り、浮世絵の話題になった。
「もう私、男の人ってみんなあんなのかって・・・」
「そうね、じゃ女の人ってどうなのかなあって・・・」
「でも結局、あれこれ言ったり思ったりするけど、とどのつまりは」
「あれしかない、ってとこかなあ」
「そうよ、あれしか」
二人は着実・堅実に、思春期の峠を超えた。
母の声がした。
「お腹すいたでしょ、お昼の準備できたわよ」
サンドウィッチ、「まよ子」の大好物であった。
「お母さん、カラシだいじょうぶでしょうね」
「まよ子」がズル休みした時の話で、三人は大笑い。
食事が終わり、ゆっくり珈琲を楽しんでいると、急に千恵子が真剣な顔で
「安子さん、聞きにくいんだけど、お父さんのことどう思っているのかしら」
「何よお母さん、急にそんなこと」
「いいの、自分でも気持ち整理しなきゃって考えてたから」
「そうよ、私だって書斎で話したように、いつか大人になるんだから」
「このカメラをなぜ大切にしているか、自分でもわからなかったんです」
「そうよね、私だったら・・・」
「よっこ、静かに聴いてあげましょ」
なんだかしんみりするのが「まよ子」は苦手だった。安子の複雑な思い、しかし、キャパに憧れて一途に突き進む父をある意味でうらやましくもあった。母も、そんな父を今でも愛しているに違いない。そして今、このカメラを手にして、脈々と自分の中に流れている父ゆずりの血が騒いでいることを感じているのだという。
「そう、そうよね。だったら、これから私が話すことも、安子さんは受け入れられると思うわ」
そして、千恵子は修からの電話について語った。
「そうでしたか、本当にありがとうございます」
「それじゃ、このまま家で待っていてくださいね」
「あの、母は知っているのでしょうか」
「もちろんです、お母さんも来られるそうですよ」
あまりの急展開に、安子も「まよ子」も眼を丸くした。
「大人にはかなわないなあ」
「そう、くよくよしてたら、置いてかれますよ」
しんみりした雰囲気も吹き飛ばしてしまう千恵子、それは、生い立ちの重みであることを二人は知っていた。あわててやり残した書斎の片付けを済ませ、やっと落ち着いた頃には、もう陽が傾き始めていた。
「ただ今、お連れしたよ」
千恵子だけが迎えに出た。安子は「まよ子」の部屋で緊張した面持ちで待った。階下では、大人たちだけの会話がかわされ、これまでの経緯が静かに語られている。
「どうしよう、降りていこうか」
安子の返事はなかった。そして、おもむろにバッグからカメラを取り出し、「まよ子」にたのんで、できるだけ男の子っぽい服装に着替え、帽子をかぶった。
「よし特ダネだ、よっこ行くぞ」
安子は、男だった。「まよ子」もあわてて自分のカメラをぶらさげ、階段を下りた。
言葉はかわさなかった。階段を下りてくる気配を察して、大人たちは会話を打ち切り二人の様子を見守った。
「よっこ、そちらのアングルから」
「ボクは、近くでアップを・・・」
そう言うと、木場浩一の背中にカメラを押し付け何度もシャッターを切った。
「ただいま、ただいま・・・」
木場は、そのシャッター音の数だけ穏やかに応えた。やがてフィルムがなくなり、居間は静まり返った。「まよ子」は、その様子を呆然とカメラを持ったまま眺めていた。
「このカメラ、ピンぼけだよ」
「そうか、長い間ほったらかしだったもんなあ」
「そうだよ、ちゃんと手入れしなきゃだめだよ」
そして安子は、母・みどりの横に座り黙り込んでしまった。
「今日は、会えただけで十分です」
そう言葉を残して、母娘は帰っていった。
「まよ子」は納得のいかない様子であったが、黙っていた。
修と浩一は書斎に入り、あるプロジェクトの相談を始めた。
「お母さん、こんなのでいいのかなあ」
夕食の準備を手伝いながら、「まよ子」はつぶやいた。
「あの二人、なんの打合せをしているの」
「お仕事よ」
「だって、二人は初対面なんじゃないの」
「そうよ、関連会社としてお仕事の話なんでしょ」
「ふ~ん、プライベートは入り込む余地無しか」
母は、二人分の食事を書斎まで運び、なかなかもどってこなかった。大きな笑い声が聞こえた。
「大人って、何考えてるんだか・・・」
ひとり「まよ子」はつぶやいた。
数日後、そのプロジェクトの概要が「まよ子」にも見えてきた。とんでもないスケールの大きさに、仰天してしまった。安子に連絡を取る。
「ちょっと、どこかで会えない」
「明日なら写真部もないし、放課後どう?」
「学校じゃ話しにくいから・・・山野さんとこ行こうか」
「わかった、じゃ直接店で待ち合わせ」
「あれから、お父さんには会ったの?」
「会ったわよ」
「なんだ、心配してたのに」
「いろいろ言ってやったの?」
「わけないでしょ、逆にいろいろ言われちゃった」
「変だなあ、大人って」
「じゃなくて、大人として扱ってくれたっていうこと」
「まよ子」がつかんだ情報は、すでに安子は知っていた。
「おどろかない、世界規模のプロジェクト」
「そうね、でもこれからがたいへんみたい」
「この話、私すごくうれしい」
「そうね、よっこのおじいちゃんが世界を動かしたんだものね」
「そう、あの書斎が世界を動かしたんだわ」
今、書斎はそのプロジェクトの事務局となっている。事務局長は、父・修であった。
「たっちゃんの部屋を片付けるとは、こういう意味だったわけね」
「そう、こういう意味」
「よっこ、それでね、私にお父さんがやってみないかって」
「どういうこと?」
「写真よ、写真」
安子は、もう高校を卒業する。大学に行くつもりはもとから無く、かと言ってやりたい仕事も見つかってなかった。先日、家に父がやってきて、母を説得したらしい。
「安子はどうなの、たいへんな仕事だし、写真部の部長ぐらいでは務まらないわよ」
「やってみたい、お父さんといっしょに仕事をしてみたい」
そう答えてしまったというのである。
「いいなあ、このプロジェクトの一員になるんだ」
「わからない、とにかく木場さんに弟子入りするってとこかな」
「へえ、木場さんなんだ」
「そう、お父さんじゃなく、木場さん」
眼を輝かせている安子がうらやましかった。
それとなく二人の会話を聞いていたマスターが
「よっこにも手伝ってほしいことがあるって、修さん言ってたよ」
「本当、マスター」
安子と別れて、父の帰りを待った。こんなに父に会いたいと思ったことは、今までなかった。なんども、父の帰りをたずねる「まよ子」に
「昔は、たっちゃんたっちゃんだったのにね」
「何よ、たっちゃんは心の中にいつもいるんだから」
父は夕食を終えるとすぐ書斎にこもってしまうので、タイミングを見計らって
「今日、安子と山野さんとこへ行ってきたの」
「ほう、それで」
「お父さんはとても忙しいから、親孝行に手伝ったらどうだって」
「それから」
「だから、私にも何かお手伝いさせてほしいってこと」
「たかちゃんは、どう言ってた」
「よっこに、手伝ってほしいことがあるって・・・」
「そうだよ、素直にそう言えばいいのに」
「でも、お父さんに直接言われたわけじゃないし・・・」
「ちょっと遠慮したってこと」
「そう、図々しいかなって思った」
しばらく父は考え込んでから
「図々しいぐらいがいいんだ、でも、まだ高校2年生だしなあ」
「でも何か、できることあるはずよ、きっと」
小さなことから始めることにした。学校から帰ると書斎に行き、様々な資料の整理とファイリング。たっちゃんが残した膨大な資料の中に、貴重な情報がまだまだ残されているというのである。地味だけれど、今回のプロジェクトを左右する重要な仕事だと言われて、この1ヶ月同じ作業を続けている。
「お父さんが言う、そんな貴重な情報なんて出てこないじゃない」
ぶつぶつ文句を言いながら、段ボール箱の中に詰まった写真や紙片をファイルしていると、1枚の壷の写真が出てきた。
「エジプトの壺かなあ・・・」
そう思って、エジプト関係ファィルに入れようとした時
「壺だけど壺じゃないなあ・・・」
不思議な気分に包まれた。さらに箱の中をさぐると、同様の図や写真が次から次へと出てくる。
「きっとこれ、たっちゃんの研究の重要な・・・」
・・・つづく
