■エジプト藍の歴史は古く、エジプト・テーベ古墳で発掘された紀元前2000年頃のミイラには、藍で染めた麻布が巻かれていた。当時すでに藍はエジプトで栽培されており、その後インド・中国へと広がり、オーストラリアを除く全世界で栽培されたといわれている。エジプトでは神殿などで神様を祀る為に藍色の衣を身にまとい、祀りごとの準備などされたようである。発掘されたツタンカーメンの遺跡の中には、皮革、繊維等の服飾品も多数含まれており、3000年以上の歳月を経た繊維は殆ど茶褐色に朽ち、元の色はほとんど分からなくなっていた。日本で使われているタデ科の一年草はエジプトでは育ちにくく、主にインドで使われているインド藍を取寄せ、その再現が行われた。エジプトの藍染めは日本の醗酵建ての藍ではなく、日本には5世紀の頃に伝わり日本の風土に適す醗酵建てになったと考えられる。
■インドでの藍染は紀元前2000年頃といわれており、この当時すでに製藍は輸送に便利なように固形化されていた。紀元前一世紀には一部欧州へも輸出されており、インド原産の青色染料をインジカンと呼ぶようになり、これが藍の代名詞「インジゴ」となった。
■中国の古書に藍が表れるようになったのは紀元前1世紀ころからで、荀子の「青は之を藍に取りて、藍よりも青し」という名言もある。中国では当初藍は薬用に用いられ、葉は毒虫に刺されたときや腫物に貼用し、果実は古くから漢方薬として解熱・解毒に服用されており、その後染色用として用いられるようになったといわれている。
■アメリカにはアメリカ原産のナンバンコマツナギ(別名アメリカ藍)が自生している。藍の染色布はガラガラ蛇等の爬虫類の嫌う臭いを持っており、約200年前よりアメリカではカウボーイたちが藍の葉をジーンズの染色に用いたのもこのためであるといわれている。現在、ジーンズは殆ど人造藍で染色されており、世界中の若者を中心に愛用されている。
■日本への伝来は飛鳥時代と言われ、藍染めのハニワが出土されている。最も古くは生葉染めだと考えられる。藍には害虫や蛇などが嫌う成分が含まれているので、古代では身を護るために手や足に生葉をこすりつけていたのかもしれない。さらに、衣服にも生葉をこすりつけていたのではないかと考えられる。藍の色は勝ち色とも言われ、鎧や甲の内側の鹿皮も藍に染めて貼っていた。鎧の鉄片を繋ぐ紐も藍染めで、紅花染めの赤色の紐もあるが、藍染めの紐の方が丈夫で長持ちしたようである。日本で最も古い鎧は、奥多摩の御岳山の御岳神社にある。平安時代には既に「藍建て」が行われ、枕草子などにも盛んに登場する。江戸時代には衣料の80%は藍染めだったという。
調べれば調べるほどに、職人の血が騒ぐ。知らないことも多く、新鮮な意欲がみなぎってくる。
「はじめから、やりなおそう」
達人は心に誓った。
その夜、達人が寝室に入ると、孝子が待ち構えていた。
「たっちゃん、もう一度、はじめからやり直しましょう」
そして、脇にある文箱を取り出し、枕元に浮世絵を並べ始めた。
「孝子、その絵どうした」
達人は、信じられなかった。
「これは、祖父からいただいた嫁入道具なの」
日露戦争に出征した祖父が、戦地の現地人から寂しさを紛らわせるためにと入手したものだという。一枚の絵の裏に、その経緯が記されていた。戦争が終わり、跡継ぎのいない「安斎」の、孫娘が婿養子を迎えるために、可愛がってもらえるようにと願って、嫁入道具に持たせたのである。
達人は、そのような先代そして「暖簾」に涙した。
やがて、千恵子が生まれた。染色の研究は困難を極めた。ましてや、「藍染」などという時代に逆行した染物は見向きもされない。そうこうするうちに、高速道路建設の話が持ち上がり、先祖代々の土地を手放し、その資金で京都街中に小さな和風雑貨店を開く。商売のすべてを孝子が仕切り、達人は狭い作業場にこもっての研究に没頭する日々が続いた。貧しいながらも、ゆったりとした千恵子の幼少期である。
達人の研究は日本にとどまらず世界へと広がり、染料や布を求めてたびたび外国に出向くようになる。せっせと孝子は旅費を工面し、家計が悲鳴をあげる。千恵子が小学校にあがってまもなく、とうとう体調をくずしてしまった。達人はインドを巡っていたが、孝子は知らせようともせず旅費を送り続けた。千恵子は、何も知らず旅を続ける父を恨んだ。
・・・つづく