ぎょ(681) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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和紙魚(2)


せんだい1


■仙台七夕祭り

七夕については、天の川の西側の牽牛星(ワシ座のアルタイル・彦星)と東側の織女星(コト座のヴェガ・妻星)の夫婦星のよく知られた悲しい愛の物語が秘められています。この物語は古くから中国で伝承され、乙女たちは瓜や果物を供えて、二つの星を祭る「乞巧奠」(きこうでん)の行事を行いました。「乞巧」とは「巧みを乞う」ことで、七日の日に七つの孔(あな)のある金・銀・真鍮(しんちゅう)の針に、星の光をあらわす五色の糸を通し、裁縫が上手になるようにと祈りました。


せんだい2


一方・日本には古来から星祭りとは別に「タナバタ祭り」が行われていました。正月と七月の満月の日(十五日)は、先祖の霊が帰ってきて、子孫の祀りを受ける日とされていました。七月七日ころはイネの開花期で、風水害や病害虫が発生する時期でもあります。そこで選ばれた乙女=棚機女(タナバタツメ)は、七日の前日、六日の夜に御衣を織り上げ、豊作を祈って神に捧げました。これが日本古来の「タナバタ祭り」で、「七夕」(シチセキ)を「タナバタ」と読ませるのも、日本のタナバタ信仰と中国の星祭りが混合してしまったことを物語っているようです。七夕飾りについては、「吹き流し」は星の光の五色の糸に似せたもの、「振り袖の紙の着物」は裁縫の上手を、「短冊」は手習いの上手を、「千羽ヅル」は延命長寿を、「きんちゃく」は富貴を、「投網」は魚を捕る網のかたちをあらわし豊漁や豊作を願う、とそれぞれ願い・意味が込められています。


せんだい3


仙台の「七夕祭り」が日本一といわれるようになったのは、昭和3年、仙台商工会議所・仙台協賛会主催の全市七夕飾り付けコンクールを始めてからのようです。なお、七夕の仕掛け物は、盆の十六日に肴町(現・大町二丁目)で魚を供養した「浜祭り」に始まったといわれています。


せんだい4


仙台七夕は、昔から仙台名物といわれてきました。江戸時代には、伊達政宗公も豊作と技芸上達を祈り推奨したと言われています。明治時代、七夕は新暦の7月7日になり、東北地方ではひとつき遅れの8月7日に行われるようになりました。しかし、大正にはだんだん規模が小さくなっていき、仙台七夕はすっかり衰退してしまいました。昭和3年、景気回復のため開催された東北産業博覧会の記念行事として、仙台七夕が復活。それ以来、七夕の時期には町中に色とりどりの大きな竹飾りが飾られるようになり、仙台名物の名が高まっていきました。その後、第二次世界大戦のため仙台七夕は再び衰退しましたが、戦争が終わった翌年、昭和21年に復興。焼け跡に52本の竹飾りが飾られたのです。翌22年には、昭和天皇ご来県にあわせ、通りに五千本もの竹飾りが飾られました。昭和46年からは動く七夕(パレード)も始まり、仙台七夕はいっそう華やかなものとなっています。


せんだい5