ぎょ(586) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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鯉のぼり(4)


くによ5


1925年初めてヨーロッパに旅行。滞在期間10ヶ月の大半をパリで過ごし、新たな方向を模索。パスキンの助言でモデルを使った制作を試みる。


くによ6


1931年病床の父を見舞うため、25年ぶりに帰国。岡山、東京、大阪で個展を開くがあまり注目されず。軍国主義の台頭に驚く。


くによ7


1932年2月横浜出港、帰米の途につく。船中で父の訃報を受ける。


くによ8


1933年母死亡、ただ一人の肉親を失い日本との絆は切れる。

1940年自伝的随筆「東から西へ」を「マガジン・オブ・アーツ」誌に寄稿。

1941年日米開戦により、国吉の法的身分は"外国人居住者"から"敵性外国人"となる。

1942年アメリカ合衆国戦時情報局の要請により、日本人向け短波放送の演説原稿を書く。

1953年移民帰化法の改正を受け、アメリカ市民権取得申請の準備を始めるが、果たさぬまま、5月14日、胃がんのため、ニューヨークで死去。


くによ9


国吉が生きたのは、日本人移民排斥、大恐慌、第二次世界大戦と、アメリカ社会が激しく揺れ動いた時代です。その中で国吉も、しばしば二つの祖国を持つものの苦しみを味わいました。米国内での国吉に対する評価は定着するものの、米国と日本との関係が悪化し、太平洋戦争が起こるに及んで、国吉は「敵性外国人」として辛い日々を送らざるを得ませんでした。祖国日本と、自らの現在の立脚点である米国との間で、引き裂かれるような気持ちであったことでしょう。この時期に描かれた、不安定な構図の静物画や、地平線を遠くに望みながら、眼前には荒れ地が広がる風景画からは、このような国吉の心情が伝わってきます。しかし、その作品には一貫して、国の違いを超えた、人間のいのちの力に託す希望が読み取れます。


こいの13