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知魚楽(2)


しば1


■「以下、無用のことながら」著:司馬遼太郎

森羅万象への深い知見、序文や跋文に光るユーモア。求められるままに書かれた、単行本未収録の1983年から亡くなった1996年までに書かれた膨大なエッセーから厳選した七十一篇。司馬さんの世界の大きさに、あらためて酔う一冊。司馬さんの没後五年、単行本として出版された。テーマ別に配置されているので、司馬さんの晩年の思想を俯瞰するには都合がよい。1.ダンディズム。男のありよう、生きざまを歴史上の人物に求めた。2.アジア文明。日本、朝鮮、中国、モンゴル、ロシアの社会、国家への関心。3.仏教。日本人のこころのありよう、への関心。4.芸術。絵画への論評も少なくないが、特に詩歌への関心。本書ではとくに仏教と日韓関係への言及がまとまっていて厚みがある。「朝鮮・韓国人と日本人の集団対集団の間柄については(中略)たがいの文化と歴史を理解し、尊敬しあえるときがくるのは、百年以内ではとてもという気持ちがある」と嘆息している。

この著書の中に、湯川秀樹さんのことについて書かれた部分があるので紹介しておきましょう。


しば2


(前略)この人は『荘子』が大好きであった。その第十七編「秋水」のなかで、荘子が、橋上から魚の群れをみて“ごらんよ、魚がおよいでいる。魚にとっておよぐことが楽しみというものだ”とつぶやくくだりがある。同行していた友人の恵子(紀元前三七〇~前三一〇)が反論して、“君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか”といった。恵子は博識かつ議論ずきでつねにいうことは理路整然としている。だから、魚でもない荘子に魚の楽しみがわかるはずない、とする。これに対し、荘子は別次元から問題を展開して“だから橋上から見たとき、私には魚の楽しみがわかったのだ”とした。ふつう恵子の態度のほうが科学的もしくは合理的ということになる。(中略)私などは恵子に安心をおぼえる。が、湯川さんには橋の上の荘子の方が魅力的なのである。「・・・私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである」と、湯川さんはその文章の中でいうのである。このあたりが、湯川さんの考え方の尽きざるおもしろさといっていい。その文章は、つづく。この人は、科学的思考法につき両極端があると設定する。一方の極端は「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方である。誠ににべもない態度を、多くの科学者はとってきた。他の極端は「存在しないことが実証されていないもの、起こり得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない」という考え方であるとする。湯川さんは、こちらに近く、そうであることがこの人にとって湧きつづける泉のような“場”になっていたのである。もし科学者の全部が、この両極端のどちらかに固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。(「おりにふれて」)まことに、橋上の荘子である。もっともつねに荘子的な次元にいたわけではなく、四六時中、事物の正体という恵子のレベルのことを知りたがり、何ごとも世の中に出てきたばかりの少年のようにめずらしがった。「京都のふるい料理屋は、昔から初対面(いちげん)さんを入れないといいますね。あれはなぜですか」と、清水の古い料亭で、おかみさんをつかまえて、きいたことがある。あどけないほどの笑顔だった。おかみさんのほうもこのあどけなさに気圧され、ついしきたりという神秘的な膜を張ることもなく、明晰に答えた。ごく簡単なことだった。いちげんさんは、帰るときに現金で勘定したがる。しかし帳場では勘定の基礎資料がないために応じられないというのである。魚屋も酒屋も炭もみなつけで、かれらは翌月に請求書をもってくる。それを合計してからでないと勘定がきまらず、従っていちげんさんお断りなのです、とおかみさんがいったときの湯川さんは、世にもうれしげだった。こういう店では、色紙はねだらない。ところが、おかみさんは湯川さんの文章が好きで、このとき、みごとに折り目をただして湯川さんにそのことを乞うた。湯川さんは勘定の話をきいた自分の笑顔につき動かされるようにして応じ、「知魚楽」と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。前掲の『荘子』の「秋水」の最後の一句である。


しば3