ぎょ(441) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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食卓の魚(11)


かいこう


■「最後の晩餐 (文庫) 」著:開高 健

「腹のことを考えない人は頭のことも考えない」S・ジョンソンの絶好の格言に導かれ繰り広げられる、古今東西、人の飽くなき欲望を思い知らせる食談の数々。歴史、文学、政治までをも軽妙洒脱な語り口で呑みこみながら、最底辺の食事から王様の食事、はては人肉嗜好まで。「食」の愉悦、深淵、その極北をあますところなく描きつくす、食の大全。


ぽすた

■「マリテ+フランソワ・ジルボー」ブランドのポスター


つぶらや1


「食べる」と「生きる」ということについて・・・ふれておかなければならない人物がいる。


■円谷幸吉


円谷は福島県立須賀川高校で陸上部に在籍していた。円谷は特に成績を残す訳でもない平凡なランナーだった。県の10マイルロードレースに出場した時も順位はビリから何番目という散々な結果だった。レース終了後、陸上部の監督は県陸連の委員から円谷について次のような言葉を聞いた。「おまえのところには面白い選手がいるじゃないか。あいつさ。あれだけ走ってひとつも汗をかいてない。不思議な奴だ。」円谷は高校を卒業後、自衛隊に就職した。円谷の配属先は地元、須賀川駐屯地だった。須賀川駐屯地には陸上部がなかった。円谷は先輩の斉藤三曹と共に陸上部を設立し、毎日20キロ以上走りこんだ。円谷は近所で開催された草レースに出た。円谷は一位、斉藤は二位に入賞した。そして自衛隊の上層部はレースに出る度に入賞する二人に注目した。東京オリンピックが近づいていた。昭和37年(1962年)4月、陸海空自衛隊共通の特殊学校として自衛隊体育学校が設立された。表向きは自衛隊の体育教官養成が目的の学校だった。しかし実際は東京オリンピックのためのメダル候補生養成機関だった。円谷は入校を志願した。円谷は腰部カリエスの持病を抱えながらも一教官の直感により入校が許可された。翌1963年、円谷はニュージーランドで開かれた2万m走において、ザトペックの世界記録を4秒縮るタイムで2位入賞した。長年不振に喘ぐ日本陸上界にとって久しぶりの快挙だった。円谷は一躍天才ランナーと賞賛された。1964年東京オリンピックが開催され円谷はマラソンに出場した。この時、円谷はけして後ろを振り向かなかった。以前、競技会の時後ろを振り向いた円谷は父から「男ならけして後ろを振り返るようなことはするな!」と強く叱責されていた。円谷はゴールの代々木競技場へ2位で入場した。観衆は熱狂の渦に包まれた。しかし、けして後ろを振り返らない円谷は場内でヒートリーに追い抜かれ3位に入賞した。しかし円谷のメダル獲得に日本中が熱狂した。地元須賀川市では大パレードが行われ、防衛庁長官からは第一級防衛特別功労賞が授与された。1966年、円谷は長年付き合っていた地元の女性と結婚する予定だった。しかし上官は競技生活に支障が出ると反対した。結婚は次のメキシコ五輪までしてはいけないと円谷に告げた。円谷は女性に結婚の延期を告げた。その後、女性は円谷の自宅を訪れ、玄関先に一つの段ボール箱を置いて去った。その中には円谷が送ったプレゼントが全て詰まっていたという。それから円谷は相次ぐ故障のため成績は延びなかった。女性は昭和42年暮れに須賀川市内の商家に嫁いだ。昭和43年1月、正月に久しぶりに帰郷した円谷はどこかでその話を聞いたのだろうか。円谷は正月、実家から東京へ帰るとき、兄の車に伴走されて国道4号線を走るのが常だった。普段は数時間は平気で走っている円谷はこの時、10分もしないうちに車に乗り込んできた。そして呟いた。「もう走れない。」数日間、円谷は官舎に戻ることはなかった。官舎に戻ったのちに安全カミソリで頸動脈を切り自殺した。


つぶらや2

●遺書(1968/01/09)

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、餅も美味しゅうございました。」で始まり、延々と食べ物の近親に対するお礼がつづられているこの遺書は、それ自体が円谷の「最後の晩餐」なのだ。「幸吉は疲れてしまって、もう走れません。」生きることが走ることであった円谷が、走れなくなったということは生きられなくなったということであり、近親の愛情と食べ物への素朴な感謝の気持ちを表明して死んでいった円谷の死は、とてつもなく悲しいものでありながらある種の幸福さえ感じさせる。人間が生きることの意味、死ぬことの意味が、食べることといかに関わっているか・・・


つぶらや3