ぎょ(382) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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うるうぉい(13)


いちかわ1


市川團十郎さんも好きで日本画を描かれるそうです。3月3日が「金魚の日」だということを紹介しましたが、「魚の日」は10月10日なんです。


いちかわ2


■市川團十郎描く「魚の日」ポスター 全国水産物卸組合連合会(全水卸組連)は、毎年10月10日を「魚(とと)の日」と制定し、全国各地の魚市場を中心に、様々なPRのイベントを実施するとの記者発表を行った。「魚にもっと感謝したい、魚をもっと食卓に、という数年来の思いがまとまったため、ポスターと標語を公募したところ、意図にピッタリの作品が見つからなかった。求心力がある人に頼みたいということになり、成田屋さんにお願いした」(全水卸組連)という。魚河岸と團十郎家は江戸時代から縁が深い。例えば『助六由縁江戸桜』の助六を團十郎がつとめる際には代々魚河岸の旦那衆が、助六トレードマークの紫の鉢巻に下駄を贈呈する。さらに『助六』の舞台に上がって河東節を演奏する河東節連中には魚河岸旦那衆が大勢名を連ねるという。「江戸時代、日本橋に芝居町があったとき、魚河岸も日本橋にありました。人が集まる場所ということとで相乗効果があったのでしょう。江戸後期になって芝居町が浅草に移らされるときも、魚河岸に相談して移動してきたという説もあるほど」と團十郎は説明する。


いちかわ3


「最初にポスターを描いてほしいといわれた時は、びっくりしましたよ。好きで日本画は描いていましたけれどね。ですから”描いてはみますが、お気に入らなければどうぞ他のポスターを使ってください”ということで始めました。まさか全国に貼られると思っていなかったので、今ビビッテいます(笑)。和紙に岩絵の具を用いて描きました。二種類描いたんです。もう一枚は鯛が泳いでいるもっと地味な色調のものでした。こちらの原画は、とにかく鮮度の良さを表現したくてこういう(魚の目をアップした)構図にしました。家族が『これ、鯉?』というので、『いや、鯛だ!』というやりとりもありましたよ(笑)。鯛は魚の代表ですからね。私が一日和室にこもっているので、海老蔵も『オヤジ、なにやってるの?』とやってきたり。描き終えた後は、この”モデル”さんは、きれいに我々の胃袋に収まりました。


ありそ1


■荒磯会

「もう20年以上前になりますか、新富町の料亭松志満<まつしま>で父十一代目團十郎が一門の弟子達に勉強会をさせたのが始まりで、正式に第1回を名乗って致しましたのは昭和38年7月の砂防会館です。私は『勧進帳』を父に教わり初役で勤めまして、その後は女形もしなければと、『鏡獅子』の弥生では翠扇<すいせん>おばさんにすっかりお世話になって……」嬉しそうに大きな目で遠くを見て、海老蔵氏(現團十郎)が先日話してくれた。発足時の趣旨は一応遂げたので荒磯会は昭和48年第7回をもって終る。実際は夏の公演なので、この頃歌舞伎教室などに出演することが多く、稽古期間が少なくなり、それでは初めの目的に反しますし、と亡きお父さんに似た誠実な言葉で御子息は結んだ。



■荒磯模様

中国から渡来して茶入<ちゃいれ>等に珍重された数々の名物裂<めいぶつぎれ>の中に荒磯緞子<あらいそどんす>という逸品がある。「荒磯」は日本名で、魚・波・岩の文様を指し、中国では「龍門の鯉魚」という吉祥文、これから引用した波頭に鯉の跳ねあがる勇壮な柄<がら>は、『極付幡随長兵衛<きわめつきばんずいちょうべえ>』の舞台でお目にかかる。主人公が花川戸のわが家でくつろぐ衣裳は濃地に白抜きの荒磯模様。九代目團十郎の創始にかかるこの役らしい男の美を端的にあらわす。「荒磯会」の名もこれに由来している。


■荒磯文(ありいそもん)は、波打ちよせる磯の風情を文様にしたものであり、これに岩や小鳥を配したり又、荒磯松文と呼んで、岩に松をあしらったものなど、色々に自然の風情を衣装化しています。中国では黄河上流にある龍門の急流を逆昇る事の出来た鯉は龍になったと言われています。これが登龍門伝説で、困難であっても突破すれば立身出世ができるという例えに使われます。


ありそ4


陶磁器にもよく荒磯文は登場します。


ありそ5


ありそ3

ありそ2