うるうぉい(6)
『カムイ伝』はいったん終わった。作者自身が第一部をおえた時点で、「物語の真のテーマはいまだに現れていない。なんと不可解なことであろう」と書いた。非ハリウッド、非ディズニー、非手塚治虫。ここまでは白土三平のファンなら気がつく。反差別、反搾取、反権力。これは、すでに社会思想が訴えてきたことだ。しかし、白土三平はこれらの「非」や「反」にとどまらなかった。白土三平は日本の「聖と賤」の秘密を描かざるをえないところまで展出してしまっていて、それなのに徳川社会の村落にとどまらざるをえなくなった矛盾に喘いだ。それは浅草弾左衛門がついにその役割を明治に入って放棄することで、近代社会に突入していかざるをえなかった宿命に似た宿命を、白土三平が背負ったということなのである。「絶対矛盾の自己同一」に向かうしかないところへ投企してしまったのに、それを天皇や祭祀や仏教社会に向けないことによって背負った。もしそうだとすれば、白土三平は真の意味での「負」のマンガ家なのである。「非」や「反」を超えたマンガ家。それを知るには白土三平が『カムイ伝』の筆を折ってから描きつづけた神話シリーズに目を向けなければならない。そこには「火の鳥」が一匹とて飛んでない。
■白土三平、本名・岡本登は1932年(昭和7年)2月15日、東京都杉並区に生まれる。血液型はA型。幼少時は父の活動により各地を転々とする。父・岡本唐貴は昭和初期の有名な画家であり、少年時代(戦前・戦後)は父に油絵を教えてもらう。
■1963年、白土は東京都練馬区の豊島園近くに住んでいた。すぐ近くには赤目プロの事務所も借りていた。「カムイ伝」(第一部)連載が始まった頃、勝浦に行き、旅館に夫人と泊まることに。この時、勝浦市興津から夷隅川上流まで延々歩き、偶然、大多喜の旅館「寿恵比楼(すえひろ)」を発見する。多誌に複数連載をもつ多忙からの睡眠不足や精神的圧迫感から、白土は体調を崩していく。その療養も兼ね、度々家族で、または赤目プロのメンバー達でこの旅館に泊まるようになる。1965年10月、その旅館につげ義春を連れて行き、10日ほど泊まる(それを機につげの作風が大きく変わる)。ここでは作品制作の合間、釣り・木登り・きのこ狩り、などをするが、これが白土がこの旅館に泊まる最後であった。
1966年末、その延長で内房の富津市湊、湊川下流のとある漁師の家の二階を借りて通い住むようになる。その後、そこから少し南下した場所に空家を見つけ移り住む。そのようにして現在まで4度、千葉での居を移している。千葉に移り、海を知り、磯遊び・陸釣り・沖釣り、と近所の漁師に付いて勉強し、それに関するエッセイを書いたりもしている。 2000年4月、「カムイ伝第二部」の連載が中断された。再開が待たれていたが、2005年7月、小学館配布の冊子「カムイ伝全集」パイロット版(書店に配布/非売品)に突然「そして……未来を照らす最終章「カムイ伝第三部」近日連載再開決定!!」と告知が入った。どうやら2005年4月頃に「カムイ伝第二部」を連載分で終了とした模様で、2006年11月に「カムイ伝第二部」最終巻(「カムイ伝全集」内)はラスト5枚の原稿が追加され発行された。現在白土は「カムイ伝第三部」の取材・執筆に取り掛かっている。