ぎょ(352) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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魚の文学散歩(うぉーきんぐ)宮沢賢治②


やまなし3


『お魚は……。』
その時です。俄(にはか)に天井に白い泡がたつて、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾(だま)のやうなものが、いきなり飛込んで来ました。
兄さんの蟹ははつきりとその青いもののさきがコンパスのやうに黒く尖(とが)つてゐるのも見ました。と思ふうちに、魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがへり、上の方へのぼつたやうでしたが、それつきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金(きん)の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
二疋はまるで声も出ず居すくまつてしまひました。
お父さんの蟹(かに)が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるへてゐるぢやないか。』
『お父さん、いまをかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。それが来たらお魚が上へのぼつて行つたよ。』
『そいつの眼が赤かつたかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かはせみと云ふんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまはないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行つたの。』
『魚かい。魚はこはい所へ行つた』
『こはいよ、お父さん。』
『いゝいゝ、大丈夫だ。心配するな。そら、樺(かば)の花が流れて来た。ごらん、きれいだらう。』
泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべつて来ました。
『こはいよ、お父さん。』弟の蟹も云ひました。
光の網はゆらゆら、のびたりちゞんだり、花びらの影はしづかに砂をすべりました。


やまなし4


 二、十二月(十一月?)
蟹(かに)の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすつかり変りました。
白い柔かな円石もころがつて来小さな錐(きり)の形の水晶の粒や、金雲母(きんうんも)のかけらもながれて来てとまりました。
そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶(びん)の月光がいつぱいに透とほり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしてゐるやう、あたりはしんとして、たゞいかにも遠くからといふやうに、その波の音がひゞいて来るだけです。
蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡(ねむ)らないで外に出て、しばらくだまつて泡をはいて天井の方を見てゐました。
『やつぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だつてわざとならもつと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たつたそれきりだらう。いゝかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだらう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いゝかい、そら。』
『やつぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。ぢや、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがつては。』


やまなし5


またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どつち大きいの』
『それは兄さんの方だらう』
『さうぢやないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きさうになりました。
 そのとき、トブン。
黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうつとしづんで又上へのぼつて行きました。キラキラツと黄金(きん)のぶちがひかりました。
『かはせみだ』子供らの蟹は頸(くび)をすくめて云ひました。
お父さんの蟹は、遠めがねのやうな両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云ひました。
『さうぢやない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行つて見よう、あゝいゝ匂(にほ)ひだな』
なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂ひでいつぱいでした。
三疋(びき)はぽかぽか流れて行くやまなしのあとを追ひました。
その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るやうにして、山なしの円い影を追ひました。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔(ほのほ)をあげ、やまなしは横になつて木の枝にひつかかつてとまり、その上には月光の虹(にじ)がもかもか集まりました。
『どうだ、やつぱりやまなしだよ、よく熟してゐる、いい匂ひだらう。』
『おいしさうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰つて寝よう、おいで』
親子の蟹(かに)は三疋自分等の穴に帰つて行きます。
波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石の粉をはいてゐるやうでした。


けんじ4


■【クラムボンとは】教育の現場も含めて、クラムボンが何であるかという議論が行われることがままある。いくつか説が唱えられ、中にはクラムボンという言葉の語源として有力なものもある。しかし、それはあくまで語源の問題であって、クラムボンそのものが何であるかということではない。「クラムボン」は読者が自由に想像できるからこそ価値があり、その意味を問うことは無粋なことだということで落ちついている。


けんじ5


■【なぜ題名がやまなしか】教育現場で子供達に題名を付けさせると決して「やまなし」という題は付けない。少なくとも五月と十一月の両方に登場する蟹に注目して、「蟹の兄弟」あたりが妥当だともいえる。もちろん個人的には「やまなし」のほうが好きだが、なぜ「やまなし」のほうがいいと思えるのか、そして賢治はなぜ「やまなし」と付けたのか、まだ決定的な説は出ていない。



けんじ6