魚の文学散歩(うぉーきんぐ)宮沢賢治①
宮沢賢治は、明治29(1896)年、岩手県花巻市に生まれました。盛岡の高等農林学校在学中に、詩や散文の習作を始めます。日蓮宗に深く帰依し一時上京して布教活動をするなどしましたが、妹トシの病気の知らせを聞いて、急いで帰郷することになりました。それが大正10(1921)年のことでした。帰郷後は農学校で教壇に立ちつつ、多くの詩や童話を創作します。やがて農学校を退職し、「羅須地人協会」を設立して(1926)農民への献身の生活に入ります。しかしその後身体を悪くし、稲作の不良を心配して風雨の中を奔走したのがきっかけで肋膜炎にかかり、以来病臥を繰り返すこととなるのです(1928)。昭和6(1931)年には病気は一時良くなりましたが、無理をしたためか再び病床生活となり、この時には死も覚悟して遺書も書いているようです。その時、手帳に残したメモが、あの「雨ニモマケズ」なのでした。昭和8(1933)年、僅かに歩けるようになりましたが、病勢は一進一退でした。それでも賢治は、多くの論文や創作を書き続けていました。9月、夜遅くまで肥料設計の相談に応対し疲労、その後容態が急変して亡くなったということです。37歳でした。生前には、作家としてはほとんど無名で、(雑誌に発表した童話や論文以外で)唯一出版した詩集『春と修羅』の一千部は、自費出版でした。
■宮沢賢治1918年(大正七年)5月19日「保阪嘉内あて書簡」より
『私はしかしこの間、からだが無暗に軽く又ひっそりとした様に思ひます。
私は春から生物のからだを食ふのをやめました。
けれども先日「社会」と「連絡」をとるおまじなゑにまぐろのさしみを数切たべました。
又茶碗むしをさじでかきまわしました。
食はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。
「この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食ってゐる。」
「怒りながら食ってゐる。」「やけくそで食ってゐる。」
「私のことを考へてしづかにそのあぶらを舌に味ひながらさかなよおまへもいつか私のつれになって一緒に行かうと祈ってゐる。」
「何だ、おらのからだを食ってゐる。」
まあさかなによって色々に考へるでせう。 』
■宮沢賢治「やまなし」
小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。
一、五月
二疋(ひき)の蟹(かに)の子供らが青じろい水の底で話てゐました。
『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらつてゐたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『それならなぜクラムボンはわらつたの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつぽつぽつとつゞけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のやうに光つて斜めに上の方へのぼつて行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがへして、一疋(ぴき)の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまつたよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べつたい頭にのせながら云(い)ひました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻つて下流の方へ行きました。
『クラムボンはわらつたよ。』
『わらつた。』
にはかにパツと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢のやうに水の中に降つて来ました。
波から来る光の網が、底の白い磐(いは)の上で美しくゆらゆらのびたりちゞんだりしました。泡や小さなごみからはまつすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。
魚がこんどはそこら中の黄金(きん)の光をまるつきりくちやくちやにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流(かみ)の方へのぼりました。
『お魚はなぜあゝ行つたり来たりするの。』
弟の蟹(かに)がまぶしさうに眼を動かしながらたづねました。
『何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ。』
『とつてるの。』
『うん。』
そのお魚がまた上流(かみ)から戻つて来ました。今度はゆつくり落ちついて、ひれも尾も動かさずたゞ水にだけ流されながらお口を環(わ)のやうに円くしてやつて来ました。その影は黒くしづかに底の光の網の上をすべりました。