ドロー魚イング(17)
■立原道造「優しき歌」
夢見たものは ひとつの幸福ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある 明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさした 田舎の娘らが 着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて 田舎の娘らが 踊りををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは青い翼の一羽の 小鳥低い枝で うたつてゐる
夢見たものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
■松本竣介「盛岡風景」
■松本竣介「岩手山」
■松本竣介(1912-1948)
東京生まれ。1914年に花巻に転居、後盛岡に移り盛岡中(現盛岡一高)入学。 1929年上京し、太平洋洋画研究所へ。1935年二科展初入選、以後連続出品。月刊誌「雑記帳」を発刊するなどジャンルを超えた活動を行ったが、惜しくも夭折。
冷たく透き通った空気と詩的な静けさをたたえた画面。短い作家活動の中でさまざまに変遷を重ねながらも、松本竣介の絵には宮沢賢治の世界と相通ずる感性が感じられると度々指摘されています。竣介が岩手で暮らしたのはそう長い期間ではありませんが、多感な少年時代の大半をすごしています。父は宮沢賢治と交流があり、青年賢治は時々竣介の家を訪れることがあったといいます。緑にめぐまれた盛岡で素直な明るい少年に成長していた竣介が思わぬ不幸に見舞われたのは、盛岡中学校に入学して間もない13歳の春のことでした。流行性脳脊髄膜炎にかかり、約半年間の入院で病気はなおったものの聴覚が失われてしまったのです。当時の校長の理解ある協力で竣介は難聴のまま中学校への通学を許可されますが、翌年再度1年生の課程を繰り返しました。 2年生になると、音を失った竣介の楽しみにと父はカメラと現像道具を、しばらくすると油絵の道具を買い与えました。翌年春の盛岡市内中学生によるスケッチ競技会では風景画が2等に入選。作品の裏に「比の作は一つも個性といふものが出ていない。単なる自然の模写に過ぎぬ」と自記を残し、絵画の本質を早くも自覚しようとしています。
盛岡中学の同窓生には彫刻家の舟越保武がおり、二人の友情は竣介が亡くなるまでお互いの作品に影響を与えながら続きました。3学年を終了すると、盛岡中学を退学して家族とともに上京、まもなく太平洋画会研究所に通って本格的に絵の勉強を始めました。 20代に入ると、東京在住の岩手出身者による美術団体北斗会の展覧会等に出品、 23歳の秋には二科展で「建物」が初入選、画家としての本格的なスタートを切りました。昭和11年結婚、夫人とともに、雑誌の発行を目指して自宅に「総合工房」を開設し、多彩な作家、画家が筆をふるうユニークなデッサンとエッセーの雑誌「雑記帳」を発行。雑誌には竣介自身も多くの文章、デッサンを発表しています。太平洋戦争開戦の昭和16年、美術雑誌「みずゑ」に、芸術家の創作活動までをも国策の一部に取り込もうとする軍部の姿勢に対し、ヒューマニズムの立場から異議を唱える「生きてゐる画家」を投稿したことなどから、竣介は「抵抗の画家」と呼ばれることもあります。終戦の昭和20年、平和な時代を迎えて再び制作に没頭できるようになりましたが、戦時中の疲労や栄養不良がたたって竣介は健康を害してしまいます。昭和23年6月、第2回美術団体連合展に出品作を搬入はしたものの、会期中一度も会場を訪れないまま36歳で息を引き取りました。