ぎょ(344) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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ドロー魚イング(16)


たちはら20


●立原道造がヒアシンスハウスを構想したのは昭和12年冬から13年春にかけて、詩集『暁と夕べの詩』を刊行した頃である。当時の別所沼は鬱蒼とした木があり、草が繁り、沼には守り神の白蛇が住んでいて、その伝説の蛇はとてつもなく太く、とてつもなく長かったと伝えられている。近所に住んでいた詩人神保光太郎に誘われて道造はたびたび別所沼を訪れていた。そのころ既に体の不安を感じていたのであろうか、友人に宛てて寂しくつぶやいている。「いつの間にか、僕は自分の晩年に就いて考へている僕を見い出す。どんな陽気な問ひから始まつても、僕は、やがて、自分の晩年を、ロマンのなかに悲しく描きはじめてしまふ。浦和に行つて沼のほとりに、小さい部屋をつくる夢、長崎に行つて古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へている。かなしいかげりのなかで花ひらくのだ。」沼の畔に小さな部屋を作る夢は、かなしいかげりのなかで花ひらく夢であった。その夢に熱中した道造は神保光太郎に二枚のスケッチを送るなどして実現を願ったが、肺カタルは悪化し、半年後には死に向かって走るように盛岡へ、長崎へと出発する。ヒアシンスハウスは「ぼくの半身は詩を考へ、もうひとつの半身は建築を夢見る」と話したという道造が最後に夢見た建築であった。


ひやしんす1


Hyacinthus(ヒヤシンサス)の名は、ギリシャ神話の美少年「ヒュアキントス」から。太陽神アポロンに愛されたヒュアキントス少年が円盤が頭に当たって死んだとき、血に染まった草の中から1本の花が咲いたのがヒヤシンスだったとのこと。・ギリシャ地方原産。16世紀にヨーロッパに渡り、日本には1863年にフランスからチューリップとともに渡来した。甘い香り。明治時代には、英語読みの「ハイアシンス」に「風信子(ハヤシンス)」という漢字をあてていたようです。「風信子」「飛信子」という和名あり。香りが風によって運ばれるさまを表している。「飛信子」なんかは「ヒヤシンス」の音からの当て字。色は青、ピンク、赤など。黄色もあります。「ヒアシンス」とも読む。3月1日、4月6日の誕生花、花言葉は「しとやかなかわいらしさ、初恋のひたむきさ」


もりおか1


●立原道造「盛岡ノート」

盛岡市出身の画家・深沢紅子の父親、四戸慈文の別荘に滞在したときの東北旅行を綴ったノートが、「盛岡ノート」である。別荘などに1938(昭和13)年9月から10月まで、約1か月滞在したときに感じたことを叙情的な表現を用いながら、恋人にあててつづる形式で進む。中津川や岩手山などの風景を取り上げ、盛岡の街並みを「かわいらしい町」と表現。1978年深沢紅子の挿絵入りで1冊の本として出版。1度重版したきりで最近は書店で手に入らない幻の本。ノートは96ページ。縦15・5センチ、横12センチ。38年に立原が日本縦断紀行を決意し東京・上野を汽車で出発。山形、仙台などを経て目的地の盛岡に到着。その後約1カ月、深沢の父四戸慈文の山荘に滞在し恋人にあてた日記を書いた。市内を流れる中津川に行った際の「南昌山の高いあたりは赤く日にてらされていた 岩手山には薔薇色の雲がかかっていた」などと立原が盛岡で感じた自然などが描写されている。78年に同市の百貨店「川徳」のかわとく壱番館から出版。81年に増刷され、その後、絶版。2002年に盛岡ノートの朗読劇が行われたのをきっかけに立原の研究者や書店経営者ら市民有志が再刊に向けた委員会を発足。東山堂が出版元となり2000部を発行。


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