ドロー魚イング(18)
■舟越保武「魚をもつ女」
■舟越保武「青い魚」
■舟越保武
大正元年(1912)、現在の岩手県二戸郡一戸町に生まれる。県立盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)では、のちの洋画家松本竣介と同期であった。 昭和9年東京美術学校彫刻科塑造部に入学。14年新制作派協会彫刻部創立に参加し、会員となる。このころから大理石彫刻を始める。直彫りによる石彫の第一人者で、25年の第14回新制作派展出品作の《アザレア》は、文部省に買い上げられた。16年郷里盛岡で松本竣介と二人展を開催。二人の交友は、23年の竣介の死まで続く。
25年盛岡カトリック教会で洗礼を受ける。33年に着手、37年に完成した《長崎26殉教者記念像》で第5回高村光太郎賞を受賞する。また、島原の乱の舞台となった原城跡で得たイメージをもとに制作した《原の城》では、はじめ頭像を、47年にはすぐれた造形力を示す全身像を完成し、中原悌二郎賞を受賞。同作は同年ローマ法王庁に贈られ、翌48年これに対し、ローマ法王から「大聖グレゴリオ騎士団長」の勲章が授与された。この間、42年東京芸術大学教授に就任、43年には田沢湖に《たつこ像》を、翌年《ダミアン神父》を制作する。
水深423.4メートルと日本一を誇る田沢湖の岸近く、永遠の若さと美貌を願い湖神となったと伝えられる、伝説の美少女たつこ姫のブロンズ像。その姿は澄んだ青い湖水を背にして清楚。製作:舟越保武 昭和43年4月12日除幕
52年釧路市の幣舞橋に設置された《道東の四季ー春ー》で長谷川仁記念賞を受賞。53年には芸術選奨文部大臣賞を受けた。55年東京芸術大学を定年退官。翌年多摩美術大学教授となる。 58年、同大退官。61年、東京芸術大学名誉教授となる。62年、脳梗塞に倒れるが、退院後、左手でデッサンを、そして彫刻を始めている。平成11年、文化功労者に選ばれる。日本の具象彫刻は、戦後、本郷新、柳原義達、佐藤忠良、舟越保武らによって、ひとつの頂点に達したといわれています。それはロダンの影響を受けて、荻原守衛や高村光太郎が切り開いた日本の近代彫刻が、成熟し完成したことを意味するといえましょう。舟越保武は、彼らが官展アカデミズムに対して、生命主義の系譜と呼んだこの流れに属しつつ、その中で独自の位相を占めています。 舟越は、《長崎26殉教者記念像》《原の城》《病醜のダミアン》や多くの聖女像、あるいは《萩原朔太郎》や《若き石川啄木》、《魚》連作などの作品が示すように、敬虔なカソリック信仰と澄明な詩心、そして強靭な造形精神によって、純度の高い数々の秀作を生みだしました。また、日本における本格的な大理石彫刻の第一人者として定評があり、砂岩を素材とする表現においても卓越した作家として知られ、彫刻芸術における新分野の開拓者としても、すぐれた業績をのこしています。釣り好きの舟越は、渓流とそこに棲む生き物との関係、自然の大きさ厳しさに思いを馳せる。枝の先には「やがて浮子(うき)見えずふりむけば月見草」とある。
十字架に処せられた「キリスト受難の日」を再現したレリーフ『十字架の道行』は、美術界に大きな足跡を残した舟越さんの崇高なカトリック精神が表現され、鑑賞者を引きつけている。舟越さんは、長男が生後8カ月足らずで亡くなったのを機に、1950年古里盛岡でカトリックの洗礼を受けた。以降、キリスト教信仰は、舟越芸術の根幹をなしていく。52年、仙台市の元寺小路カトリック教会の依頼を受けて、今展で展示されているレリーフ「十字架の道行」の連作16点を制作した。大聖堂の壁面に設置されたあわガラスのボードに、小刀を使って印刻。作家の透明感あふれる精神世界が表現され、鑑賞者の注目を集めた。同教会が93年に改築された際に取り外し、同記念美術館で展示。その後は、収蔵庫に保管されてきた。作品は、キリストが死刑宣告を受ける場面から、重い十字架を背負ってゴルゴダの丘に登り、はりつけにされ埋葬されるシーンまでが表されている。通常は14の場面が描かれるが、信仰を象徴する「魚」を描いたプロローグと、キリスト自身を意味する「子羊」のエピローグが添えられている。キリスト教信仰の本質をうかがい知ることのできる各場面が、繊細な描線で丹念に刻み込まれた。
■「渓流にて」舟越保武
多摩川の上流の奥多摩湖、そこに流れ込む丹波川の支流に後山川がある。この川はかなり険しい谷川で、山女魚や岩魚がいて、私はよく釣りに出かけた。行き始めてから、もう十年以上になる。私の釣りの腕前はいつまでも上達しない。むしろ下手になっている。近頃は釣り方が粗雑になってきた。以前のように釣りに熱中しないで、気の散ることが多いからだろう。気が散るといっても、世間の事や雑事に心を奪われるというのではない。自分が立っている渓流の環境の、怖ろしいほどのカと、自然の底知れない逞ましさに圧倒されてしまって、ケチな釣りどころではない。何か大きな大切なものが私を取りまいている、という想いの方が強くなって、釣りに気がはいらない。釣れないから負け惜しみを言うのではない。自然の、静かであるが、巨大な迫力に圧倒されてしまう。あまり釣れないと、つい釣り糸の目印から眼をはなして、周囲の景色を見まわすことになる。対岸の雑木の下の暗がりに一輪だけ咲いている、山百合の白さに見とれたりする。釣り人は何人もここを通っただろうが、山百合くん、君を見つけたのは私だけだよ、と呟いたりする。なぜにこんなたいへんな斜面に生まれ育って、いま私の限の前にあるのか。まさか私がここに来たから咲いたのではないだろうが、などと考えたりする。私は、はげしい孤独感のとなりにいるようなものだ。花屋さんにある白百合とは違う。この山百合は、荒海の上の潅木の繁みの暗がりに一輪だけ咲いている。なぜ、こんなところに咲くのかと思う。なぜといったって、種子がそこに来て、そこに芽が出たのだから、一所懸命に岩にしがみつきながら白く花開いたのだ。仕方がないことだ。下の方の葉は、しぶきに打たれてふるえている。山百合は私のために咲いたのではない。それはあたりまえのことで、私など何の関係もない。それでも私は、私だけが山百合に対面しているのだと感動する。たまに釣り人がこの場所を通っても、魚に夢中になって、誰も山百合には気がつかない。私だけが君を認めて美しさに見とれているのだ、と思い上がったことを考える。山百合にして見れば、私の想いとは反対に、せっかくここに人知れず咲いたのに、東京から来た変な奴が、泥棒みたいな格好で煙草なんかくわえて、勝手なことを言うのは甚だ迷惑であって、場所にそぐわない人間に見られて、その身が汚れる思いがしているのかも知れない。川に立つ釣り人の私は、この風景の中の小さな一つの点に過ぎない。山百合の白さの前では、むしろ小さな汚点のようにさえも見える。
■舟越保武『巨岩と花びら』より
一介の職人、石工として、名もなくこつこつと石を刻みつづけた寺院彫刻の石工たちに、私は限りない親しみを覚える。彼等はその彫像に、自分の名を刻まなかった。私の中に棲む中世の石工たちは、地味な灰色のもっさりした姿の猫背のおじさんだ。黙々と、石に像を刻みつづける彼等は、人の眼に見えない部分の、たとえば肩の後ろの髪までも、丹念に刻み上げた。その素朴な生面目さが尊いと思う。私が、もしあの時代のものと同じほどのものが作れたとしたら、などと不遜なことを考えるのだが。もしそれが出来たとしても、どうにもならない。こんにちは、とあの石工達の仲間に入って行くことも出来ない。現代に生きる私は、複雑な思考で汚染されているから。