版魚人(はんぎょじん)⑦
■清宮質文1917-1991 1917年(大正6)現在の東京新宿区三光町に洋画家・清宮彬の子として生れる。1935年(昭和10)同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。37年(昭和12)東京美術学校油画科に入学。在学中は藤島武二、田辺至に学び、銅版画も試みた。1942年(昭和17)同校卒業。44年(昭和19)慶応義塾工業学校の美術教師となるが、応召。戦後は一時商業デザインに従事。1953年(昭和28)美校同級生による「ゲフの会」結成に参加、木版画をはじめる。翌年の第31回春陽会展に《巫女》で初入選。以後同展に出品を続け、57年(昭和32)会員となった。翌サヱグサ画廊で初個展開催。1960年(昭和35)より南天子画廊での個展を作品発表の場とした。静謐で詩的な心象世界を版画で謳う作風が高い評価を受け、62年の東京国際版画ビエンナーレ展をはじめ1973年(昭和48)のリュブリアナ国際版画ビエンナーレ展に出品。1977年(昭和52)春陽会を退会、無所属となる。複製性よりも造形的特色に版画の可能性を求め、モノタイプの版画作品にこだわった。1991年5月11日、心筋梗塞のため西荻窪・山中病院で逝去。
■清宮質文雑記帖より
「私は精神的空間の深く澄んだ空気を作り出したいのだ。私の絵の中に。そしてその中で呼吸したいのだ。」
「私はたゞ絵の中に 空気を求めている。深く、澄んだ 無限に深い・・・」
「我が画は我が祈り」