版魚人(はんぎょじん)⑧
■長谷川潔 1891年、横浜生。父は第一国立銀行の支店長。厳格な父の下、小学生のころから書画骨董の見方を身に付ける。このころ目にした拓本類が、後の長谷川の黒へのこだわりのもとになる。麻布中学を卒業後、黒田清輝の美術研究所に通いながら、版画の研究をする。大森文士村に居を構え、北原白秋、堀口大学ら文学者と交友。ルドンやビアズリーに傾倒し、「大森ビヤズレ」と呼ばれていた。
1918年、渡仏。国立図書館に通ったりしながら古版画を研究し、当時は忘れ去られていた技法、マニエール・ノワール(黒の技法・英語ではエッチングという)を再生させた。一般的に長谷川潔はこのマニエール・ノワールによる、1960年代の作品によって知られているが、この版画技法の道具を発見しながらも、その使い方がわからず試行錯誤していた頃の作品も捨てがたい。(1930年 アレキサンドル三世橋とフランス飛行船 など) 後年の漆黒のマニエール・ノワール作品にはない伸びやかさが感じられるからである。
また、ビュランの技術も定評がある。第二次世界大戦中、敵国人としてフランスで辛酸を舐めていた時期に一本の樹と交流し、それ以降万物の声に耳を澄ますようになる。また「時」への思索を深め、その思想はマニエール・ノワールの静物画に込められるようになる。版画は刷りが大切であり、自身が育てた刷り師が亡くなると、それ以降作品を作らなくなった。
27歳で渡仏してから、89歳で亡くなるまで、一度も日本に戻らなかった。藤田や浜口とは反目しあう仲。駒井哲郎をかわいがっていた。
■遺著『白昼に神を視る』白水社より
《地球上の目に見える世界をとおさないと、見えない世界にはいっていくことはできない。しかし、見える世界のほうがはるかに小さい。これを私は静物画に描く。》
《自然の随所に真理は閃き出ている。》
《一木一草をつかもうとすると必ず神に突きあたる。若い時には判らなかったこのことが、私には歳とともにだんだんと判ってきた。たとえば、木が、なぜこんなにたくさんあるのか、と。この問いを徐々に押しすすめていくと地球全体の問題となる。》
《若いとき自分が、なぜ、ムンクやルドンに惹かれたか、その理由が、このごろになって私にはようやく判ってきた。要するに神秘の感情を彼らは表現しようとしたのだが、しかし、神秘的光景を描くことによってそれを表現しようとした。これに対して私の態度はこうなのだ。私は白昼に神を視る、と。》