魚の文学散歩(うぉーきんぐ)[15]
■1959(昭和34)年 『蜜のあはれ』老作家と金魚との会話だけで独立している小説
・・・「おじさまはそんなに永い間生きていらっしゃって、何一等怖かったの、一生持てあましたことは何なの。」「僕自身の性慾のことだね、こいつのためには実に困り抜いた、こいつの付き纏うたところでは、月も山の景色もなかったね、人間の美しさばかりが眼にはいって来て、それと自分とがつねに無関係だったことに、いよいよ美しいものと離れることが出来なかったね、やれるだけはやって見たがだめだった、何ももらえなかった、もらったものは美しいものと無関係であったということだった、それがおじさんにたあいのない小説類を書かせたのだ、小説の中でおじさんはたくさんの愛人を持ち、たくさんの人を不倖にもしてみた。」・・・
■1960(昭和35)年 『火の魚』
・・・と、「私はそのとき突然一人の童女の顔を、折見とち子といふ婦人記者を眼にうかべた。」「彼女の父は私と同郷で釣りを好み、釣ったさかなの大物は魚拓に」するようなひとで、彼女自身といえば「手先のわざと頭をつかふ事に均等を持」ち、「ふしぎな素早い応答のあざやかさが、美人であるなしをいう相手の批評をすぐ取り上げ」、「人には見えぬふふんという、鼻であしらうものを用意している。」・・・
■1962(昭和37)年 72歳没
■「子供の頃はよく小魚を釣りに出かけたのですが、上京してからはすっかりチャンスを失った」と機会にめぐまれなかったから釣りをやめたように語っているが、実は、ある招待された料亭で網を打って捕らえた一尾の魚を手に載せてみた時、最初のうちに暴れていた魚が、「凡ての抵抗を捨て一切を委せるようにおとなしくなってしまったのです。いじらしい姿でした。私は耐え切れない気持ちになって両手の間に挟んで温めてやると、開ききった大きな目に涙をいっぱい溜め、瞬きひとつしないで私をじっと見つめているではありませんか。それは生と死を逸脱した尊い姿でした。私は慌ててその魚をもとの瀬に放し、それっきり魚釣りはやめました」と語っている。