ぎょ(234) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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焼津(1)


やいづ1


「魚濫観音」を求めて全国の漁港近辺を調べていると、「焼津」にいろいろ興味深い魚グッズがあることを発見したので紹介していこう。


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静岡県では昔から、カツオやマグロ漁業が行われてきました。代表的な港は焼津港です。カツオやマグロ漁業の歴史は非常に古く、江戸時代には駿河湾で沿岸漁業が行われていたという記録が残っています。明治になってからは、カツオやマグロが沿岸に来なくなり、漁場は次第に遠洋漁場へと移っていくようになりました。そのため漁船は石油発動機付漁船が初めてつくられ、年と共に大型化し、大正9年には水産業界として初めてのディーゼルエンジンを備え付けた漁船も現れました。


やいづ3


昭和になってからは、カツオとマグロ漁をするための「兼業船」が現れて、漁業の場は遠洋漁業へと発展していったのです。昭和27年以降は、遠洋漁業でもマグロが主流となり、ミッドウェイ島近海から南シナ海、赤道付近へと漁場が拡大し、焼津は全国一の遠洋漁業の地として有名になっていきました。焼津の名を世界に高めたのは第五福竜丸ビキニ環礁被爆事件やマリアナ集団遭難などでした。現在、焼津港に水揚げする大型漁船は年間700隻を数えています。漁場も太平洋からインド洋、大西洋と世界の海域にわたっています。


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残念ながら「焼津」の観音さんは「魚濫観音」ではありませんでした。


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■曹洞宗玉光山全珠院 神話ヤマトタケル東征の舞台ともなった焼津。嘉祥3年(850)、武人坂上田村麻呂が当地に入江荘を開き、真言宗大覺寺が開創されました。現在も「焼津市大覚寺」の地名として、この地に残っています。永延2年(998)、荘園郷主「槇田(まきた)家」の菩提寺として天台宗善修庵にひきつがれ。弘治3年(1553)、曹洞宗全珠院に改められ、今日まで法灯を伝えています。千手観音は全珠院の本尊です。


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平成15年(2003)、本尊は新たに千手観音の大仏となりました。それは槇田家三十二代目夫人の未来千年の幸福を祈って千年続く仏像を造りたいとの発願から始まりました。著名な大仏師、渡邉勢山氏が、樹齢300年~400年の木曽ヒノキを使って造仏。水中乾燥法などの古来の技法や漆塗りで材の強度を増し、さらに手打ちの金箔で漆を保護しているため、千年の歳月に充分耐え得るものです。複雑な構造をもつ千手観音像には大仏造立の例がほとんどなく、従来は、鎌倉時代の仏師・運慶の作で知られる京都三十三間堂の丈六千手観音が最大のものでした。したがって、この像高4メートル20、仏頭1.8メートルの仕上がりは、じつに750年ぶりに出現した日本一大きな千手観音です。


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■焼津の歌「焼津ラプソデー」作詞:山口秀夫と焼津市のみなさん/補作詩・作曲:つのだひろ
1. カモメ舞う 我がふるさとは 潮風が 心に吹く
人々は星をまとって 波音に抱かれて眠る
※ウォーウォーウォー ウォーウォーウォー
2. 赤銅に染まった肌は 頑固さが焼き付いている
そっけなく無口だけれど やさしさがにじむ笑顔
ここは焼津みなと町 明日を分かち合えるところ
誰もが皆 住んでみたくなる 透き通った海と この空の下
 花は桜か木屋川堤 かわす盃花吹雪
 霞たなびく高草山よ 花沢の里 水車
 八雲が惚れたこの町に 今日も響くよセリの声
 駿河の海に富士山仰ぎ 白帆うかぶは大崩
 まぐろカツオだ大漁祭り 男輿女輿の勇み肌
 情に厚くて涙にもろい 焼津気質は親譲り ア~ア~
※ウォーウォーウォー ウォーウォーウォー
3. 大漁の旗なびかせて 男衆が帰る頃は
いそいそと酒を温め 紅さして待つ女達
ここは焼津みなと町 愛にあふれ揺れるところ
一度は皆 船出したくなる 未来と夢が待つ この海へ
※ウォーウォーウォー ウォーウォーウォー
いつまでも忘れない ふるさとはここにある
雨の日も風の夜も 色あせずここにある


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ウォーウォーウォーというところが「魚」の歌らしくてとてもいいですよね。


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■カフェ「いわさき」 焼津の古きよき時代の空気を色濃く残す八雲通り(旧名浜通り)はかつての目抜き通りで、現在でも手作りの水産加工品を作る老舗があり、散策にぴったりです。小泉八雲が愛したことから名がついた八雲通り沿いに建つカフェ。大正10年に建てられた民家をリノベーションし、昔懐かしい空間でお茶や軽食、お酒が楽しめます。昼はランチやカフェで、夜は常滑焼のサーバーに入った数十種類の焼酎と酒肴をお楽しみいただけます。2階はギャラリーにもなっており、雑貨販売や不定期に展示会なども行っています。


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■焼津市歴史民俗資料館 郷土の歴史風土を探る郷土資料、小泉八雲・第五福龍丸関係資料、埋蔵文化財発掘出土品を展示及び収蔵している。またオープン展示を原則とし、実物大住居址の復元もある。明治時代の文学者小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治30年夏、家族と共に初めて焼津を訪れました。その後亡くなる明治37年まで、毎年のように魚商人山口乙吉さん宅の2階に滞在しました。



やいづ11

■小泉八雲「乙吉の達磨」より ・・・(略)私の庭の雪達磨は、何年か前に、私が東海岸の或漁村で楽しい一夏を送った時に発見した甚だ妙な達磨の事を私に想ひ出させる。そこには宿屋がなかった、しかし、或魚屋の主人の乙吉と云ふ男が、私に二階を貸して、不思議な程色々に料理した魚の御馳走をしてくれた。(略)それから私は店へ帰って、うろうろしながら色々の物を眺めた。一方には棚が何段もあって、干物の箱、食用の海藻の包み、草鞋草履の束、酒徳利、ラムネの壜などのせてある。その反対の側のずっと上に、神棚があった。その神棚の下に、達磨の赤い像のある少し小さい棚のある事に気がついた。たしかにその像はおもちゃではなかった、その前に供物もあった。私は達磨が家の神となっているのを見ても驚かなかった。(略)・・・田部隆次訳


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