魚濫観音(1)
「魚雷観音」を掲載しましたが・・・新年早々のこともありますので「魚濫観音(魚籃観音)」を紹介することにしました。
まずは観音様について・・・
①名前の由来は、「南無観世音菩薩」と唱えるだけで即座にその音を観じて助けに来てくれることから。
②華厳経によると、観音菩薩は南方の補陀落(ふだらく)山に浄土を持つ。日本では僧侶が南海の観音浄土を目指して小舟で漕ぎ出す「補陀落渡海」が行われた。
③観音浄土信仰はチベット仏教でも盛ん。【ポタラ宮殿】は、補陀落の語源「ポータラカ」に由来。
④三十三観音とは、聖観音、十一面観音、不空羂索観音、千手観音などとは別系統で中国で考案された。通常の観音菩薩が中性であるのに対して女性身であること、白い布をかぶる像が多いことなどが特徴。
⑤三十三観音には、白衣(びゃくえ)観音、楊柳(ようりゅう)観音、水月観音、魚濫(ぎょらん)観音などがある。
⑥群馬県高崎市の【高崎観音】や神奈川県鎌倉市の【大船観音】などの巨大な像は、白衣(びゃくえ)観音。
⑦子安観音、慈母観音は、三十三観音をベースにした民間信仰の像。
北斎も描いています。
■魚濫観世音菩薩(魚濫観音・魚籃観音)
魚に乗って、手に魚を持ちます。起源は中国です。魚売りの美女が観音様であったという説話にもとづくもので、魚商をしていた婦人が後に馬氏に嫁すが実は観音の化身であったといわれる菩薩です。岬や港町で大漁を願って祀られていることが多く、魚が沢山入っている篭を持っています。
■長野市松代町「曹洞宗・梅翁院」
梅翁院は、眞田十万石松代藩初代信之公の側室(玉川伊豫守女右京)戒名「梅翁院殿正覚妙貞大姉」淑靈(寛文十一辛庚年十一月五日歿・・・西暦一六七二年)及びその両親受光院殿・智光院殿の菩提を弔うために眞田家が創立した寺です。
右京の局は極めて聡明の人にて、信之公に忠義甚だ厚く、寵愛を一身にあつめ、公が晩年隠居し万治元年入門して一當齋と号されたが、その極老に至るまで日夜身辺に付き添われました。一當齋は同年十月十七日柴にて九十三歳で薨去(眞田家御遺物雑記によれば玉川右京女金子千両の配分を受けられたとあり)。その後は剃髪して妙貞と云い清花院殿と稱されました。京都の尼寺に住して日頃信仰の魚濫観世音をまつりて心信を込め身辺の護り本尊として、専ら信之公の冥福を念じたといわれています。
高村光雲さんの作品です。
■群馬県太田市「曹洞宗・曹源寺」
「日本三大さざえ堂」のうち最大の規模を誇るこのお寺の本堂(観音堂)は別名「さざえ堂」と呼ばれ県の指定重文であり、「上州太田七福神」の布袋尊の木像が祀られています。説明看板によると御本尊は阿弥陀如来となっていますが、江戸時代にお寺が火災で消失したというそのときにもろとも失われてしまったのではないかと思われ、ガイドブックでは「魚濫観世音菩薩」 が御本尊と書かれています。
■滋賀県蒲生郡安土町「天台宗・観音正寺」
聖徳太子が琵琶湖のほとりで人魚に呼び止められた。人魚は『私の前世は漁師で、殺生を重ねてきたので、こんな姿にされてしまい、今では魚たちに苦しめられています。どうか成仏させて下さい』といって頼んだという。聖徳太子はこの願いを聞き入れ、千手観音像を刻み、推古13年(605年)に堂を建立し、観音像を祀ったのが寺の創始とされています。






