祭り(2)
■「水主町の鯱」 唐津初代藩主寺沢志摩守広高が築城時に、水軍の基地として船宮を設け、その周辺に水主たちを住ませたのが町の始まりです。後に城下17カ町と同格扱いとなり、寺沢氏改易後一般町民も移住するようになりました。江戸時代後期の文化年間(1804~1817年)には、戸数71戸・人数293人で穀船5隻、川船7隻がありました。江戸時代末期には、領内で石炭が採掘されるようになり、町内の富田屋宮島家と横浜屋田中家は、御用石炭問屋として明治初期まで繁栄しました。「鯱」は、明治9年(1876年)細工人富野淇園、大工棟梁平野町木村與兵衛、鍛冶木綿町正田熊之進、木挽本町楠田儀七、塗師棟梁久留米住通町3丁目川崎峯次晴房らによって製作されました。
水主町が「鯱」を選んだ理由としては、当初龍王山を造る予定であったが、江川町で蛇宝丸(七宝丸)を造ることになったので、急きょ富野淇園に相談して海と水に関わる鯱を造ることになった。鯱が火災よけの魔力があり、町名の水と関係があるので決まったとも言われています。また、それまでの水主町には仮造りのヤマはなく、明治初年ころ、町内の若者の風紀が乱れていたので、曳山を中心に町民の心を寄せ合わせるようにとの思いが込められていたのだとも言います。水主町の曳山は総高3.8メートル、幅2.5メートル、高さ5.7メートル、重さ1.5トンの、昔子供たちがオコゼと愛称していた赤と金がきらびやかな威勢の良い魚曳山です。しかし、急造のため紙張りが薄く大き過ぎても操作難しく、傷みも激しかったので、昭和3年(1928年)に新規に曳山を造り直すことになりました。曳山原形は同年3月より約1ケ月、紙張りは同年6月より約1年6ケ月、漆塗りは昭和5年4月より4か月で完成しています。
この時の町内の役員には顧問宮島明治十郎(酒屋)、宮島傅兵衛(しょう油屋)、田中好太郎(質屋)、委員長会計古瀬朝吉(金物屋)、相談役区長築山万治郎(中道屋・乾物屋、雑貨)などの方々がおられます。昭和5年、曳山の形は全体として小さくなり、両側に耳を付けています。頭部のとげ突起も眉の上面だけになり、尾びれの先端が前後に開いていたのを、開かないように固定しました。しかし、曳山内部に尾びれを外して出入りしていた、名残りのはしごは復元され現在に至っています。
明治9年製作の曳山の台車は、昭和50年の100年祭記念で台車が新調されたので、現在曳山展示場に展示しています。また、大正3年に、小笠原長生公が宮島本家宿泊の折、水主町消防組で夜警をしたことがあり、この時お札金を下さったので、町では3階菱の纏ととび口、直筆の幟(ぺナント)を記念に作成しました。曳山展示場に現在展示中の纏がそれにあたります。