ぎょ(164) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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祭り(1)


くんち1


■「唐津くんち」 唐津っ子の産土神である唐津神社の秋祭り。いなせな法被姿の曳子たちが曳き廻る勇壮華麗な14台の曳山は、壮快無比な景観です。11月2日、3日、4日の3日間唐津の街は祭り一色になります。(旧暦9月9日に行なっていたことから、9日すなわち「くんち」と呼ばれるようになったといわれています。)


くんち2

■「魚屋町の鯛」 四番曳山・源義経の兜に遅れること1年、弘化2年(1845年)9月に製作されています。細工人、塗師ともに不明で、当時の若者として「治吉」、「甚兵工」などの名前が残っているにすぎません。五番曳山に鯛を選んだ理由としては、(1)魚屋町が魚屋の町だったので、魚の代表として鯛を選んだ。(2)曳山は神様(神輿)の警護のために獅子や兜がまず造られたが、神へのお供物として魚の代表の鯛が選ばれたもの。が言い伝えられています。鯛は製作されてから、明治に2回、大正で1回、昭和になって2回の修理を経ていますが、今でも当初の姿をよくとどめています。


くんち3

曳山の総高約6.7メートル、総幅2.2メートル、総奥行2.5メートルもある巨大な鯛の漆塗りの芸術品です。明治2年(1869年)の曳山修理記録をみると、当時の「年寄」として、草場常助(屋号平田屋・呉服店・薬店)、佐々木弥吉(昔の笹屋。宿屋業)など4人の名前のほか、魚屋、米屋、雑貨商を営んだ小宮新兵衛らの名前が残っています。この年の5月には、函館五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍がついに無条件降伏し、戊辰戦争が終わりを告げています。明治10年(1877年)の修理記録には「8円」と記載され、当時の「十戸長」として「米正」の屋号で知られた米穀商・油屋の加藤正平や現在の看板屋の家系の小林清蔵などの名前がみられます。このころ魚屋町では既に魚屋はほとんど無くなっていたようです。大正13年(1924年)の修理記録によると、曳山行事が消防の組織で運営され、その下に山笠係が設けられていたことがうかがえます。この時の塗師は佐賀市の江口鶴一です。江口は昭和34年(1959年)の修理時も塗師宮口鍛(江川町)の師匠として、弟子の指導をしています。


くんち4

鯛の形を魚屋町の西ノ木屋山内家にもと所蔵されていた「唐津神祭行列図(明治16年)」と大正13年の写真と現在とを比較すると、目と胸ビレの間のウロコは行列図のものが多く画かれており、尾ビレ、尻ビレ、胸ビレの金色の線(軟条)が行列図ではそれぞれ10本・7本・7本であるのに対して、大正のものと現在のものは一本づつ少なく画かれています。曳山の曳き手も、昔は蔵男や店の番頭などが応援しており、曳山を曳く時は竹で電線を上げながら通り、昭和40年代の初めまでは鯛の尻尾を下げて曳いていたそうです。曳山囃子の笛は、唐人町の在方の人に応援してもらい、太鼓・鐘は町内の大人がたたき、子供は曳山が止まった時だけさせていたそうです。


くんち5

■「唐津神祭行列図」富野棋園筆/明治16年(1883)/唐津神社 重要無形文化財に指定される「唐津くんち」の曳山(ひきやま)行事の様子が描かれた大作。曳山15台(現在は紺屋町の黒獅子がなく14台)とその曳子(曳き手)のほか、見物人など総勢1600人以上が克明に描写されています。作者の富野棋園(1830~87)は唐津の人で、明治8年作京町、翌9年作水主町の曳山の制作者として知られ、のちに佐賀師範学校の図画教師となっています。


くんち6

■唐津市京町「山内薬局」吉富さんの話 「明治16年唐津魚屋町西ノ木屋8代目山内小兵衛均安蔵六が本町の絵師富野淇園に描かせた7枚の襖絵です。制作当時は『くんちの間』という座敷の襖でした。年に一度町内(魚屋町)の連中を呼んでその座敷で酒盛りをして楽しんでいたと父が申しておりました。8代目蔵六さんを、私たち木屋関係のものは「チョンマゲじいさん」と呼び親しんでいます。当時600両を持たせて京都に絵の具を買いに行かせたそうです。魚屋町の鯛山の下には殿様からの拝領物の三階菱の紋の裃を着て脇差しをさした自分の姿を描かせ、隣には共に大町年寄を務めた同じく魚屋町平田屋(草場三右衛門)さんと大石町の綿屋(小島新兵衛)さんも描かせ、鯛山の綱の前には赤い化粧まわしのお抱え力士にかつがれた息子(9代目山内小兵衛均幸・幸之助)を、更に鯛ヤマの上、松の木の奥には二の門のお屋敷からお姫様がうらやましそうに神祭行列を眺めているところまで描かせています。これはまさに唐津神祭秋季大祭であるお供日の山は町人の誇りであるところを表しています。9代目幸之助さんは明治4年生まれで、明治25年21歳で亡くなりました。そこで東の木屋から私の祖父が10代目として本家西ノ木屋に養子に入りました。 この絵は江戸末期の様子を蔵六さんが描かせたにもかかわらず、明治9年にできあがった江川町と水主町のヤマも描かれています。描かれた人々は皆まげを結っていて江戸時代の様子です。この絵はあくまでも西ノ木屋8代目が個人的に描かせた時代絵巻なのです。」