魚の絵(6)
以前にも紹介したが、もう一度パウル・クレーを登場させよう。
Paul Klee(1879-1940)
魚は、鳥や蛇などと並んでクレーの作品にしばしば登場する動物の一つです。少年のころ、ナポリの水族館の水槽の前で魚たちの魔術のような美しさにうたれたクレーにとって、それ以来、魚は彼の重要なモチーフの一つとなったようです。そのときの感想を、クレーは次のように書き記しています。「水族館は非常に面白い。とりわけ、表情豊かに居座っているタコ・ヒトデ・貝といった連中は。それから険しい目つきと巨大な口、ポケットのようなかみ袋を持った怪物どもも。他の連中は、偏見にとらわれた人間のように、耳まで砂に埋もれている。・・・」魚をモチーフとした作品は、すでに1901年頃、つまりクレーが20歳を過ぎた頃から最晩年の1940年にいたるまで続きます。
クレーの画集「ART GALLERY KLEE(集英社)」の解説によれば、この「金色の魚」の輝きは、「キリスト」のメタファー(隠喩)ではないかとされています。「自らの内なる光に由来し、しかもそれは燐光のように熱くもなく、周辺を照らすこともない。神秘的な美の象徴として、この魚は永遠にその輝きを失わないであろう」と記されています。谷川俊太郎は、クレーの「金色の魚」に触発されて次のような詩を書く。大きな魚が小さな魚を食べて生きる姿を描いたのだとして・・・
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
マチスがおおらかに歌を唄う「歌手」ならば、クレーは静かに物思いにふける「詩人」、知的でまるで「学者」のようでもある。
構図だとか構成だとか・・・思い煩うことが馬鹿らしくなる。自分が描きたいものを描きたいように描く。それは、これまでの多くの画家の模倣ではない、自分の設計図に基づいて描いていくこと。何を描こうとしているのか、画面に何を塗りこめたいのか・・・構図や構成が目的ではなく、その結果として画家の構図が完成・設計図どおりに建築されるのだろう。