ぎょ(120) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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魚の絵(2)

高橋由一「鮭」についで、よく美術教科書に登場する魚の絵と言えば・・・


青木繁


青木繁(1882-1911)

明治32(1899)年、画家を志して福岡・久留米から上京し、小山正太郎の不同舎に入門、翌年、新設間もない東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝の指導を受けました。しかし、黒田の教室よりは、図書館や博物館に通い、古今東西の書物や文物に想像力を駆り立てられた青木は、外光派の絵画におさまりきらない人類への夢を育んでいきました。明治36(1903)年の白馬会展には、《黄泉比良坂》をはじめとする、神話や古代の世界にインスピレーションを得た画稿類を出品し、画家デビューを白馬会賞の受賞で飾りました。翌年美術学校を卒業した青木は、その夏、恋人や友人と遊んだ房州布良の体験をもとに制作した《海の幸》で、大海原を背景にくりひろげられる神話的な世界を、古代への憧憬で謳いあげました。《海の幸》は白馬会に出品されるや、当時の美術界に衝撃を与えたのみならず、蒲原有明ら当時の浪漫派詩人たちに歓呼の声で迎えられました。しかしこの時を絶頂期に、現実と向かい合うことができなかった画家は、恋人福田たねと愛息との生活をみずからの手で切り開くこともできず、困窮のうちに輝きを失っていきました。再起を期して出品した《わだつみのいろこの宮》も明治40(1907)年の東京府勧業博覧会での評価はふるわず、この年開設された文展にもついに登場することはありませんでした。父の死によって久留米に呼び戻された青木は、福田たねとも肉親とも縁を絶ち、郷里を放浪して28歳の若さで波乱の生涯を終えました。