ぎょ(113) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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シャチホコ(1)

名古屋城のホームページで紹介されている鯱に関する豆知識です。

●金鯱はオスとメスに分かれていて、天守閣の北側にあるものがオスで、南側がメス。オスは、高さ2.621m,重さ1,272㎏。メスは、高さ2.579m,重さ1,215㎏。鱗の数はオスが112枚、メスが126枚。

●創建時は、慶長大判1,940枚(小判にして17,975両)が使われており、現在の価格に換算すると、金1g=1,500円として、約4億となる。再建時は、18金(純度75%)、厚さ0.15ミリの金板が2体あわせて88kg使われており、現在の価格で1億円くらい。なお、再建時の製作費は2体で約4,800万円。

●創建時は、原型を檜でつくり、黒漆を塗り、その上に鉛板を張りさらに銅板で裏打ちした金板の鱗を張りつけた。再建時は、青銅鋳物でつくった原型に漆を焼きつけ、その上に鱗が1枚ずつとりつけられている。鱗は成型した銅板に0.15ミリ厚の金板を張りつけたもの。なお、金鯱の表面は24金メッキしてある。

●金鯱は実在するシャチとは関係のない想像上の動物で、飛鳥時代に中国から伝わり、当時の寺院や宮殿などを飾った。その原形は、中国において海中に棲み雨を降らせるとされている鴟尾(しび)や、インドにおいて鰐(わに)と竜の合体した想像上の動物である魔伽羅(まから)をかたどったものではないかと言われている。日本では、当初は火事の際に水を吹くという言い伝えから火除けのまじないとして、後には権力の象徴として造られた。


名古屋城


安土城の鯱には「熱田宮吉秀」の刻銘がのこっており、古くから熱田神宮の造営に携わってきた「熱田大工」の一人がこの鯱を製作したことがわかります。安土城造営の大工棟梁は織田家の御大工であり、中世以来の熱田大工である岡部家。一般に城に鯱が使われ始めたのは、豊臣秀吉が築いた大阪城が最初ではないかと長い間語られてきましたが、安土城の発掘調査による鯱瓦の発見によって城郭における鯱の始まりが安土城であることがわかりました。「金箔鯱瓦」は、五つの破片が出土し、その形状から、大きさの異なる二体の鯱瓦であると考えられています。破片から金箔鯱を復元すると、高さ約81cmとなります。天主の大棟の鯱としては低く、何層目かの破風に葺かれていたものと考えられます。金箔は牙、目玉、鰭のみに押されており、紋様の凹面に金箔を押した軒瓦同様、落ち着いた上品な印象を受けます。


安土城


しかし、復元された安土城天守閣の鯱は金ぴかになっています。


安土城2


滋賀県長浜市教育委員会は22日、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が築いた長浜城の遺跡から、金箔を施すため漆が塗られた鯱瓦が見つかった、と発表しました。市教委は、秀吉が本能寺の変の翌年に柴田勝家を破った賤ヶ岳の合戦(天正11年=1583=4月)直後、諸大名に天下統一を知らしめるため、長浜城に金箔を使ったとみています。鯱に金箔を施した瓦は、織田信長が安土城(滋賀県安土町)で初めて使用。2番目は、秀吉が天正11年(1583)9月に築城した大坂城(大阪市)とされ、それより4、5か月早い長浜城での使用は金鯱の歴史を塗り替え、名古屋城へとつながるルーツ解明に一石を投じそうです。金箔を張り付けるための接着剤となる漆が確認されたのは、鯱瓦の顔部分(長さ約23㎝、幅約16㎝、高さ約15㎝)と、屋根の先に並ぶ軒丸瓦(直径約18㎝)。昭和55年度(1980・4~81・3)の調査で出土していたもので、西山要一奈良大教授が赤外分光分析などで漆を検出しました。金箔は剥がれ落ちていましたが、鯱(推定高70㎝)は全面金箔張りだったとしています。


長浜城