ものはついでに・・・織田信長も調べてみました。
■木瓜紋は古く御簾の周囲にめぐらした布「帽額(もこう)」につけられた文様が独立したもので、一般に木瓜(ぼけ)や胡瓜の切り口を方だったとされるのは誤りだそうです。この紋様は中国の唐代には官服の紋様にされていました。横に扁平な形(横木瓜)が基本ですが外郭の数が増す(5~8)につれ円形に近づきます。保元の乱(1156年)当時の内大臣、大徳寺実能が車文としていたことが大要抄」に記されていることから大徳寺氏の家門とされたのが最初といわれています。
■名前の由来は、ボケの実の形が瓜に似ていることから「木瓜」となり、モッケ~モケ~ボケに変わったとの説が定説です。木瓜の文様は、「もっこう」と呼ばれ「木瓜」の字を当てて古くから日本人に親しまれてきました。めでたい紋とされ、織田信長を代表に、家紋とした武家は多く知られています。秋には木瓜の実が黄色く熟し、甘い香りがするようになります。まだ完全に熟す前の青い実を長時間、酒に漬けて『木瓜酒』を作ります。この薬酒は、疲労回復や暑気あたりに良いとされています。また、実をつける木瓜は一重の花であるものがほとんどです。
■「木瓜」(もっこう)、この紋は京都八坂神社を始め『須佐之男命』をお祀りする多くお社のが御神紋としており、御祭神と何らかの関係があると思われるが不明である。「木瓜」は「きゅうり」又は「ぼけ」の切り口をかたどったものともいわれ、実際祭事の期間中にきゅうりを食さない等の信仰も残されているが、元来は中国に於いて、官服や御簾模様に使われた文様を示し、卵を産んだ鳥の巣を象ったものといわれている。
■織田信長もこの紋を使用し、「織田木瓜」とも呼ばれ、津島神社は信長の紋を拝領したとの説もあるが、織田氏の祖は越前織田の郷「剣神社」の神官であり、この社紋を使用したとの伝えもある。又、京都八坂神社を始め多くの『須佐之男命』を御祭神とするお社が「木瓜」社紋を使用していることから、当時の武士が神の力によって武運を祈願したように、信長も『須佐之男命』の御神威を身に付け自らをより強固のものとする為、この神紋「木瓜」を用いた思われる。
■蝶は平安のころより、装飾文様として使われていた。平重盛の子維盛は、蝶紋を車紋として用い、平家一門の公達も鎧などに蝶紋を使用していた。平氏は源氏によって滅ぼされたが、生き残った「六波羅党」と呼ばれる武士集団も蝶紋を用いた。このように平氏一門・一族が蝶紋を多く用いたことから、蝶紋が平氏の代表紋として見られるようになった。しかし、源氏に属して平氏と戦った平氏も多く、千葉氏・上総氏・畠山氏などなどの坂東平氏の諸氏が挙げられるが、そのいずれも蝶紋は使用していないのである。公家の場合をみると、桓武平氏高棟流の諸氏が用いている。また、高望流平氏では伊勢平氏と呼ばれる流れが蝶紋を使用していたようだ。武家をみれば、清盛の後裔を称する伊勢の関氏、繁盛流の伊勢氏らが蝶紋を用いている。
■戦国武将織田信長も平氏の後裔を称して、揚羽蝶紋を使用していたことが知られている。戦国時代、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えて、大大名となった池田氏の蝶紋があまりに有名である。池田氏が蝶紋を用いるようになったのは、織田信長から拝領したことに始まるという。池田氏の出自は必ずしも詳らかではないが、古代豪族池田首の後裔の家に源頼政の弟・仲光の四男・泰政が養子に入ったことから清和源氏を称したと伝える。泰政はその後、美濃池田と摂津豊島の地頭職を兼ね、京都滝口にあった武者所にも勤め、源平の争乱にも遭遇した。さらに摂津国において有力国衆となり、室町幕府にも仕えた池田氏の一族であろうとされている。この池田氏の家紋は木瓜で、大名池田氏も本来は木瓜紋であったと想像される。
■木瓜は胡瓜の切り口を図案化したものといわれるが、本来は「カ(穴カンムリに巣と書く)」と呼ばれる鳥の巣を象ったものといわれる。カとは地上に巣を作る鳥の巣であり。樹上に作られたものを巣と書いた。木瓜紋の古いものとされる徳大寺木瓜を見れば、それがよく分かる。この紋のなかに散らされた小さな花は鳥の卵のことであるとされている。また、多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だからともいう。この紋は鳥の巣であるから、卵が増えて子孫が繁栄し、また神社で用いられる御簾から、神の加護があるというめでたい紋として諸家に用いられるようになったようだ。木瓜紋の使用家としては戦国大名織田氏の「五つ葉木瓜」が有名である。織田氏は平氏の末流を称し揚羽蝶紋も使用している。しかし、本来は越前の織田剣神社の神官の分かれとされ、越前の守護家朝倉氏に仕えたことから、木瓜紋を賜ったようである。朝倉氏は「三つ盛り木瓜」紋として知られ、その祖は、但馬国の古代豪族である日下部氏から分かれたものである。この日下部氏から分かれた諸家がこぞって木瓜紋を用いている。但馬の豪族として山名氏に仕えた太田垣・八木・田公などの諸氏も日下部一族で木瓜紋を使用している。また、伴氏の後裔も多くこの紋を用いている。その他、戦国時代奥州の地で勢力を振るった小野寺氏が「六つ葉木瓜」、畠山氏に仕え守護代職などをつとめた遊佐氏も木瓜紋を使用していた。また、武蔵七党横山党の流れである海老名氏は「二つ五葉木瓜に庵」という変わった紋である。
■織田信長が若かりし頃、まだ[天下布武]の旗印を掲げる前のこと、揚羽蝶の紋章を掲げて戦に出て行きました。1567年、織田信長は美濃平定の後、「天下布武」の印を使い始めた。「天下布武」とは日本全国を武力で統一するという意志を示したものである。この「天下布武」の意志をあらわしたものが美濃の地を「岐阜」という名前にかえた点である。これは中国の古代の周の文王が岐山によって中国全土を統一したといういわれからである。織田信長も「岐」を使うことで、自分も文王にならって日本全国を統一したいという意志を示したかったのであろう。
■旗印の永楽銭は明から輸入され当時広く使われていた通貨。信長はこれを刀のつばにもデザインとして使用。また馬印は金の唐傘。派手好みの信長にならい、織田の武将たちの馬印は金色を使ったものが多く華麗さを誇った。
信長という武将もおもしろい人ですね。
とにかく「蝶紋」を使っていたことは間違いなさそうです。