青の伝説(83) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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からむし

岩手県・福島県での藍染めを調べていると「からむし」に出会った。「むし」という言葉に惹かれて、いろいろ調べてみた。《岩手県久慈市・山根六郷研究会》この研究会が麻栽培の記録映画をつくった。しかし、16ミリフィルムのテープが1本しかない貴重なものなので、貸し出し不可であり、現地に行かないと見られない60分の記録映画「麻(いど)と暮らし」。戦後GHQの指令で大麻栽培に規制がかかってから栽培が途絶えていたのを40年ぶりに復活させ、収穫し、糸を績み、麻布をつくる様子を記録している。段取り、仕事の手順は40年ぶりの作業とは思えない。この地域の人は、麻袋で絞った豆腐が一番うまいと皆が断言している。栗駒麻布で有名な千葉家(先代の千葉あやのさんは国の無形文化財)から藍の苗をもらって麻布の藍染めを再現した。この作業は、子どもの頃にお年寄りが藍染めをしていたのを見たことがある程度ではじめてという。栽培して、糸績んで、機織りをして、藍染めをする。この一連の作業ができると今や国の無形文化財にすぐ指定される。昔ながらの生活がいかに貴重な技術になっているかがわかる。《福島県昭和村・からむし工芸博物館》昭和村では、大麻のことを麻(アサ)、苧麻(チョマ)のことを「からむし」という。このからむしからできる麻布の保存と活用に昭和村が村の予算と国の補助金をつぎ込んでできた施設が「からむし工芸博物館」と「織姫交流館」。村の人口が2000名のところにこんな立派な建物がとびっくりするようなきれいな建物。博物館ができる8年前からこの村には織姫制度というすばらしい事業を行っている。1年間、村に住むとからむしの栽培から糸績みから機織まで一貫した技術を村のおばあちゃんから教えてもらえる。この間の食事や住居は村が負担。年間5名~9名の織姫希望者を受け入れている。昭和村が気に入って住み着いた人もいるし、村の青年と結婚した人も多数いる。《からむしと麻》1988年55分自主制作映画・日本映画ペンクラブ推薦・キネマ旬報文化映画ベストテン7位。昭和村では、換金作物として、越後上布に使われるからむしを育て、自分たちの着る服は、麻だったという。からむしと麻を比較して、栽培~麻布づくりまでを解説した映画はわかりやすい。村に来て間もない織姫さんがおばあちゃんに「昔もからむしをこのように織っていたのですか?」と質問すると「麻がほとんどだった」といわれるらしい。織姫さんたちが習っている技術は、おばあちゃんが自ら着る服の麻のほうだった。昭和村の政策上、「からむし織りの里」と表向き宣伝しているのに、教えている技術は麻。この昭和村は秘境である。冬は雪で埋まって陸の孤島となる。そんな地域だからこそ、からむしや麻の生産技術が続いてきたといえる。http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/library/lib/063.html 《からむし》イラクサ科に属する宿根草の植物で、苧麻(ちょま、からむし)、または青苧(あおそ)といい、一般的に畑で栽培するからむしの繊維を青苧と呼んでいます。からむしを原料とする上布の生産地では、越後(越後上布・小千谷縮布)や宮古(宮古上布)、石垣(八重山上布)などがあり、福島県昭和村は本州における唯一、上布原料の産地となっています。http://www.vill.showa.fukushima.jp/making.stm 《カラムシ(茎蒸)》科名:イラクサ科、別名:クサマオ、学名:Boehmeria nipononivea イラクサ科の多年草の茎蒸(からむし)です。苧麻(まお)ともいいます。8月~9月頃に花を咲かせます。茎(くき)は硬く、蒸(む)してから皮を剥いで、繊維を取って織物にしたそうです。ここから茎蒸(からむし)という名がついたと言われています。葉の裏面は白い綿毛でおおわれています。繊維の原料として栽培もされます。越後縮はこの繊維で織ったものです。苧麻は帰化植物であると言われていますが、縄文時代より、からむしを含むイラクサ科の植物は、人々の生活に利用されています。野山に栽培種ではない苧麻を見る事もあり、人間の生活には昔から欠かせないものであったようですが、丈夫で肌触りの良いからむしの布は支配する側への「税」という形で召し上げられ、通常の人々の生活とは程遠い物となりました。そのお陰と言おうか、より良いものを作るという技術の錬磨が命を削るが如く重ねられ、人間の粋を極めた上納布として生産される様になりました。《和苧(からむし)》イラクサ科植物で日本では飛鳥朝、奈良朝時代に衣料として愛用されていたことが日本書紀等に記されています。名前の由来は、麻の一種が韓国の古代王朝「唐(から)」より日本へ伝わる際、唐の「mosi(韓国語で麻の意味)が「むし」」に転じたため、和苧(からむし)と呼ばれるようになったと伝えられています。《苧麻(からむし)》韓国伝統の麻で、日本では「苧麻/からむし」といいます。大麻の麻と区別して呼ばれる名称ですが、「からむし」という言葉は“カラ(韓)の国のモシ(苧麻)”から転じたものとする説もあります。蜻蛉の羽のような透明感、しゃりしゃりとした涼やかな手触り。モシは夏の衣装に欠かせぬ素材です。奈良時代からあり、自然繊維の中でも、最上級の布として扱われてきました。そのために、「上布」という麻の呼び名が付きました。《牧野圖鑑》「アオソ」が変じて「アサ」になったとあり、同圖鑑ではアオソはタイマのことですが、カラムシをアオソと言っている人もいます。《國史大辞典(吉川弘文館1979)》『あおそ青苧=イラクサ科の多年生草本の苧麻から取った繊維をいう。二~三メートルほどに達したものを刈り、茎を水に浸して筵で覆って蒸す方法によって得られたものを青苧、一名乾蒸(からむし)という。』『あさ麻=狭義ではクワ科のタイマ(大麻)、広義では他にイラクサ科のカラムシ(苧麻・紵麻)やアカソ(赤麻)、アオイ(葵)科のイチビ、アマ科のアマ(亜麻)なども含み、長い靱皮繊維のとれる植物。転じて動物性繊維の絹に対し、これら植物繊維による製品。ヲともソともいう。』とあります。昔から総称と種名、両方の意味に使われてきたようです。当然区別したい場合もあるわけで、例えば「麻」を総称、「大麻」を種名として使っている例があります。《青苧(アオソ)》 苧はイラクサ科のカラムシBoehmeria niveaの繊維、といってしまえば簡単なのだが、苧は苧麻(ちょま)とも書き、古くは麻=大麻(クワ科またはアサ科のアサ Cannabis sativa)をも苧の字で表したので、一概にはいえない。さらに元禄期以降は亜麻(アマ科のアマ、Linum usitissium)も苧に含まれていたりする。青苧は、苧=カラムシと同じ意味で使われたり、あるいはカラムシの表面の皮を一枚剥いた半加工状態をいったりとさまざまで、これまた一意的に特定はしづらい。アカソもカラムシもカラムシ属ですが、タイマはクワ科アサ属です。時にアサ科アサ属という表記も少なからず見受けられ、アサ科がクワ科に吸収されたのか、その逆なのかは判りません。カラムシ属には、他にコアカソ、クサコアカソ(マルバアカソ)などがあり、織物の分野で言う「アカソ」はこれらも含んでいるのかどうかは判然としません。「青麻(アオソ)」と「青苧(アオソ)」は違うのか?宮城県には、青麻山、青麻神社、青麻神楽・・・などがあります。《小関清子著「縄文の衣」学生社1996》によると、遺跡で発見された一番古い布は、材料の植物ごとに、「アカソ」縄文前期=福井県鳥浜遺跡(編布);山形県押出遺跡(編布)、「カラムシ」縄文晩期=秋田県中山遺跡(編布)となります。編布とは、すだれのような編み方の布で、「織布」とは区別しているようです。縄文人の服装というと、随分と原始的なものを想像してしまいますが、かなりの技術を持っていたことが判ってきました。縄文人は今なら高級紳士・婦人服を着ていたことになります。《「魏志倭人伝」弥生時代》邪馬台国の姿を伝える文章の中に『種禾稻 紵麻 蠶桑 緝績 出細紵 緜「禾稲、紵麻を植え、蚕桑緝績して細紵 緜を出す」』と書かれており、すでにこの時代には稲や苧麻を育てたり、家蚕を飼育したりして、絹製品あるいは苧麻製品を使用していたことが感じ取れます。又、遺跡の出土品の中には、絹や麻以外に藤布、葛布、楮布等があります。《鈴木牧之著『北越雪譜』天保七年(1836年)》「縮(ちぢみ)に用いる紵は奥州会津、出羽最上の産を用ふ。白縮はもっぱら会津を用ふ。」とあり、会津で栽培されたからむしがいかに最良品質を誇ったかが伺われる。昭和村は越後上布の原料のからむしを生産、供給し続けてきた場所である。青苧の買い付け商人が越後から国境の六十里峠、八十里峠を越えて、からむし仲買人のところへ毎年通い、約四〇キログラムずつ本荷とし、人足を雇って復路を辿った。明治の最盛期には栽培面積二〇ヘクタール、年間生産量高一六〇〇貫匁(約六トン)を記録し、本村唯一の換金作物となった。大正~昭和にかけての養蚕の普及、戦後の食料難、化学繊維の普及及び着物需要の激減によって、からむしは一時衰退して行ったが、からむしを残したいという個々の願いが村の集まりの中で語られ、からむし栽培復興のきざしが見え始めるのが昭和二五年頃である。そして昭和四六年、農協に「からむし生産部会」が作られ、昭和五六年農協工芸課が新設、昭和五九年「青苧栽培からむし織り技術保存会」が発足する。平成元年には昭和村からむし織りが県の指定重要無形文化財に、平成二年二月「昭和村からむし生産技術保存協会」発足、同年からむしの栽培技術が県の選定保存技術に指定され、追って平成三年に「からむし(苧麻)生産・苧引き」が国の選定保存技術に認定される。

■会津上布 自然の苧麻を紡いだ薄くしなやかな糸で織り、ひんやりとした感触は暑い季節に涼を運びます。■越後上布 苧麻の繊維を細かく裂いて、地機で平織りにしたもの。ひんやり感があり、汗をかいてもべとつかず、張りがあり丈夫です。■能登上布 県の無形文化財指定を受けています。白絣や紺絣の種類が多く、蚊絣と十字絣が中心です。■宮古上布 精密な絣模様とロウを引いたような光沢があり、滑らかな風合いが特徴で、最高級品とされています。宮古諸島に自生する苧麻を原料に織り上げられる上布。■八重山上布 苧麻を原料に、紅露ですり込み捺染の技法で染められ、手織りで織り上げる薄地で精密な織物。薩摩への貢納布として有名。《むす・ふかす》「蒸す(むす)」という言葉の東京方言が「蒸す(ふかす)」です。《まむし・マムシ》「蒸し」を入れない「地焼き」によって調理された鰻を、タレとともにアツアツのご飯の上にのせ、さらにその上にご飯をまぶしたものが大阪流の"まむし"です。"まむし"の語源は諸説あり、一つにはごはんとうなぎをまぶすことから"まぶし"がなまって"まむし"になったという説、これは広辞苑にも載っています。まま(飯)とまま(飯)の間で鰻を蒸すから"ままむし"、『間蒸し』→『まむし』になったという説。『鰻飯(まんめし)』→『まむし』という説もあります。いずれにせよ蛇の蝮とは関係ありません。鰻の語源ですが、古語の「武奈伎(むなぎ)」、"ム"は群れる物、"ナ"は泥・土、"キ"は往ったり来たりする意味から来たといわれます。また、背中が緑かかり、"胸が黄色"かかっていることから来たという説があります。胸黄(むねぎ)→うなぎ。《浅虫》青森県青森市大字浅虫。昔、布を織るために温泉を利用して麻を蒸したことからこの地が「麻蒸」と呼ばれ、それが転じて「浅虫」となったといわれています。その当時(平安時代末期)、「麻蒸」の人々は、温泉を恐れていたため湯浴みには利用せず、もっぱら麻を蒸すことだけに利用していました。876年(平安時代)慈覚大使(円仁)により発見された温泉は、1190年(平安時代)円光大使(法然)が、青鹿が傷を癒すために温泉につかっているのを見て、村人に入浴をすすめたといわれています。二百年前、民俗学者の菅江真澄(1754~1825)はその紀行日誌に、「里の中の煮坪という煮えたぎる熱い湯坪がある。付近の村々では麻を糸釜で蒸して糸をとるが、このいで湯の里ばかりは、麻を煮坪に浸して短時間に蒸上げて糸をとる。それでこの里を麻蒸というようになったという。だが、ときどき火事があるので火にゆかりのある文字を嫌って浅虫と改めたという」とあります。また、古文書にはたびたび「麻蒸・浅蒸・朝蒸」という表現が顔を出しています。麻蒸の「麻」を「浅」「朝」におきかえた理由はというと、「あさの語源は、麻で造った衣服の色が浅いことから起こった」という説があります。また、別の説では「麻の伸びるのが早く、朝起きると昨日より丈が伸びているから」ともあります。アイヌ語では、「アサムシ」、ASAM・アサム(穴の底)、USHI・ウシ(湯)ともあることから、アイヌの人々も三内丸山人と同じに、浅虫にきて「底にお湯がたくさんある」と感動したに違いありません。