《武州中島紺屋》天保7年(1837年)に初代中島鶴吉が埼玉県羽生にて中島紺屋設立して160年。四代目中島安夫が継承して50年、武州正藍染の存続に尽力。「四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった」。これは明治の文豪、田山花袋の名作「田舎教師」(明治42年)の冒頭の一説です。当時、青縞は羽生にとって代表的な地場産業で、この染め上げられた青縞は武州藍として全国に知られていました。埼玉県北部の武州で藍染めが始まったのは、天明年間1760年代からのようで、当時、農家の主婦は農閑期に一家の衣類を整えるため、綿を作りそれを紡ぎ、紺屋で自分で染め、それを織り縫製したそうです。そのため紺屋ができましたが、文化文政の頃北埼の市が開かれ、藍染の無地青縞の需要が高まり、寛永、安政時代には300,000反の販売をもつようになった。その後明治時代に入り行田市で足袋産業が起こり、紺足袋として足袋の表に藍染が使われ一大飛躍をなしていった。また武州での藍の栽培は、徳島と似ている利根川の沿岸で作られ、明治18年には作付面積1,800町歩(徳島の十分の一)、収穫量820,000貫に達し、武州はもちろん県外にも販売された。しかし、明治20年代に安価なインド藍が入り、明治30年代より純度が高く扱いやすい人造藍が入り、また阿波藍におされた大正時代には一部を除き姿を消してしまった。埼玉県の染色業は、武州正藍染、熊谷染、草加本染浴衣などがあります。八潮市は草加市・越谷市・吉川市・三郷市・川口市などの草加本染浴衣の染色地域に属します。八潮市の浴衣の染色業は、長板中型と注染があり、注染は大正10年ごろから起こり浴衣染めの主流となりました。注染が起こると長板中型は減少の一途をたどりました。では、なぜ染色業が盛んになったのでしょう。木綿を栽培し機織の多い栃木、群馬、埼玉の畑作地と消費地東京の中間に位置している。農閑期の余剰労働力がある。形付けの糊の原料の糯米や武州藍の生産地である。木綿の和晒の盛んな増林や瀬崎に近接している。中川、綾瀬川、葛西用水の軟水の水が豊富である。などの諸条件が整っていたからです。現在も市内数か所で行われており、市内の長板中型染の伝承技術者として、初山一之助さんと大熊栄市さんが埼玉県の無形文化財に指定されています。埼玉県羽生市http://www007.upp.so-net.ne.jp/ko-ya/ より
《群馬県立日本絹の里》繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示、絹を使った染織体験などにより、多くの人々が集い、伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維であるシルクのすばらしさを紹介します。http://www.nippon-kinunosato.or.jp/ より
《高崎市染料植物園》日本の染色文化や魅力を伝えるためにつくられた植物染色のテーマパーク。園内には、入園無料の染料植物の道をメインに、衣服などを染める原料に使われてきた代表的な染料植物がたくさん植えられている。また「染色工芸館」では染織品を展示している他、草木染などの講習会や染色体験も行われている。群馬県高崎市寺尾町2302-11 TEL 0273-28-6808