近年、青森市郊外の三内丸山遺跡がクローズアップされてから、縄文時代の生活と文化が、日本列島の中でも唯一、素晴しく豊かであることが分かって来ました。そしてその三内丸山遺跡から麻の種が発見されました。麻は中央アジア原産で、どんな形で日本に入って来たのかは定かではありませんが、五千年、六千年前に縄文時代の人々によって麻が栽培され、糸にされていたことが、出土した布の断片によって明らかになりました。その麻布の仕事着が、近年まで青森にありました。婦女子によって麻が栽培され、糸にされ、布が織られていたのです。津軽のこぎん刺し着物、南部の菱刺し着物です。一般的に「刺しこ」、素地の麻布に黒・白の木綿糸で刺し綴った着物です。かつて旧藩時代、青森県は二分され、太平洋側は南部藩領、日本海側は津軽藩領でした。その両藩領に、独自の麻布衣の着物が発達したのです。旧津軽藩領の弘前を中心とした稲作地帯では、麻布を濃紺に染め、白木綿糸で幾可学的で豪快な模様を展開する、こぎん刺し着物が発展しました。また旧南部藩領では麻布を濃紺に染めることはなく、浅葱色に染め、古手不綿を裏地として黒・白の木綿糸で刺し綴り、菱形の模様をつけた着物、たっつけ、前かけ、足袋、手甲を作りました。こぎん刺し着物は麻布の経糸を奇数で刺し綴るので経菱型が出来ますが、南部藩領では麻布の経糸を偶数で拾うので横菱になります。それで南部菱刺しと呼んでいますが、それは全く近年の言葉で、着物やたっつけ、前かけ等につけられる様々な模様をかつては「型コ」と呼んでいました。では何故に、同じ青森県内で経菱と横菱の形をとったのでしょうか。稲作地帯の津軽と畑作地帯の南部、生業の違いもあるでしょうが、その異なりを見せたのは江戸中期以降で、それ以前の江戸初期から室町前までは、型も形式も同じだったのではないかと推測されています。濃紺の麻布地でなく、浅葱色の麻布に黒・白の木綿糸で刺し綴ることがあっても、その木綿糸が手に入らぬ頃は麻布地に麻糸で刺し綴ったのは当然のことでしょう。染めたにしても紺は薄い色だったろうし、染めぬこともあったと思われます。津軽で麻布地を藍で濃紺に染めるようになったのは、海路、北前船で青森に徳島の藍が入るようになり、「紺屋」が弘前の城下町やその周辺に職業として成り立つ頃からです。明治二十年代を境に、濃紺の麻布地に白木綿糸で刺し綴ることが終わっていますが、その終末期には純然たる藍だけでなく、化学染料も使用していました。しかし旧南部藩領内では、集落内に一軒位の染屋がありながらも、藍を栽培して浅葱色に染めています。藍は布を染める回数を多くすると濃くなりますが、少ないと薄く浅葱色になります。藍染めの期間は初秋から晩秋にかけてで、染めの費用は正月払い、秋の実りによってでした。それは津軽でも同じであり、麻糸や布は自ら作れるものですが、染めにはお金がかかったのです。その点、津軽の場合は稲作地帯故に、米が換金出来る作物でしたが、旧南部藩領では畑作のため、ヒエ、アワ、ソバの栽培が中心で換金出来ず、自給自足の形態が長く続くのでした。昭和四十年代前半でも、古老が「津軽では三回、米の飯を食っていると言うが、本当だべか。一目見たいものだ」と言う有様で、米のご飯が食べられるのは正月とお盆だけでした。当時の生活は聞くに耐えられぬ程で、食べることに精一杯だったようです。衣類をまかなうのは主婦の仕事です。春に麻の種を植え、晩秋に刈り取り、糸にし、布に織るのは冬でした。麻を糸にして織るには、温かい場所は麻が乾いてはじけ、バサバサになるので、寒い所でなければいけません。それは囲炉裏から離れた台所の隅であり、足には稲藁製のツマゴをつけ、手には手甲をつけ、厚々と衣服をまとって背中当てをしての作業でした。それでも麻糸がはじけるので、麻糸に海ノリを薄くしたものを垂らしながらのものだったようです。麻布作りは衣類だけでない。稲藁や干し草の入るシビ布団を作るための皮であり、夏の麻蚊帳、袋物等も、麻の織り目を変えて作ります。麻布一反は十メートル前後で、着物一枚、股引(たっつけ)、前かけの中央部を作れる長さでした。そして雑多な袋物や蚊帳、寝具を作る場合、麻布の目が荒いが、その布端で飯袋を作るのです。ヒエ、アワ飯なので一般的には弁当箱(ワッパ)は使わず、袋にヒエ飯を詰めて山や畑仕事に持って行きました。麻で布を織ったものの使用範囲は広く、ただ「衣」に使う布のみを織ったのではありません。そのために麻糸の上等のものを糸コ(麻糸)として、中のものはイリソ(中の皮)、そして外皮に近いものはバチガラ、上皮(アメ糸)としました。子供達が親からいただいて、アメ屋が回って来るとアメと交換していたのです。その粗悪なものは下駄の鼻緒等に使っていました。荒い皮であるバチガラは牛馬の手綱として使われました。そして木綿糸や針、古手木綿、ハナイロ(紺布)等を手にするために、呉服を扱う店で麻布と交換しなければならなかったのです。だから自給用の麻布の他に、現金に替える麻布も作らなければいけなかったのです。南部地方の場合、畑作地帯で里山も近かったので、麻を織る季節である冬期間、囲炉裏に燃やす薪も不自由なく手に入るものでした。しかし津軽の稲作地帯では、岩木山麓や里山が近い集落の場合は樹を手にするのが容易でしたが、岩木川流域の集落は燃料となる薪が不自由でした。そのため川辺りの湿地帯に繁茂するアシの根が泥炭化したものを切り取って来て乾燥させ、燃料としました。しかし火力は弱く、燃えるというよりブスブスと焦げる状態で、煙のみ多く出ました。それを「サルケ」と言います。また冬期間の燃料は別として、日常的なご飯の煮炊きにクズ稲藁を燃やしていました。津軽のこぎん刺し着物と南部菱刺しを見ると、豪快で緻密であり、「農民工芸の華」とも呼べるものです。ただし、そのこぎん、菱刺し着物を生み出した津軽、南部の風土を思う時、そこには厳しく冷酷な程の社会的要因が含まれていることも忘れてはならないのです。藩政時代は藩主に、それ以降は地主さんに仕え、多くの人々が小作人として働いていました。そんな環境の中で、津軽、南部の娘さん達が知恵を凝らし、技を磨いて、刺し綴ることに自らの青春をかけたのです。美しくありたい、より良いものを作りたい、良い装いをしたい、という一心から、活字を読むこと、書くことも知らない人々が、確かなる記憶の中で様々な模様を体得したのです。津軽こぎん刺し、南部菱刺しの基本模様は共に四百種近くあります。津軽の濃紺に白糸で刺した鮮やかなこぎん模様、南部の色毛糸で前だれの中央部を刺し綴った菱刺し模様の華やかさは娘達の青春の躍動の色ですが、年を重ねることにより汚れ、破れ、色褪せて来ます。白色で刺した部分を濃紺に染めている一枚の衣と布は、正に人生そのものと同じく、見る者に迫って来るものがあります。「着物は人間の体を被い包むものだ。人と同じく生命あるものだ」と、姥達が語ったのを思う時、今に遺されるこぎん、菱刺し着物は、正に名を刻むこともなく世を去った青森の婦女子達の鎮魂碑であり、記念碑でもあります。http://www.kou-sei.co.jp/zui/no/zui30.html より