青の伝説(80) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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こぎん

「青の伝説」ですから、もう少し「森」について書きます。《津軽こぎん刺しの歴史》津軽こぎん刺しが生まれて約300年になります。青森県弘前市を中心とした津軽一帯の農家の女性達が、野生の麻で手織りした布を藍で染めた地布に、木綿の紡ぎ糸で一針一針丹念に綴り刺したものが始まりです。しかし、こぎん刺しとして確立されるまでには津軽ならではの事情がありました。冬でも麻布の衣類しか着られなかった時代には、布地の補強と保温を図って麻地の荒い織目を地刺しで刺し塞ぐ必要がありました。これが「刺しこぎん」といわれているものです。この技術が農民の知恵と工夫によって次第に模様刺しへと進化し、今日「津軽こぎん刺し」として確立されました。《津軽こぎん刺しの模様》この素朴な美しさは、北国の農民の暮らしの中から生まれたことを象徴するように、くるみの殻・豆・猫の目・ねずみの歯・てこな(蝶々)・はなっこなど、身近な動植物をテーマにした模様や、竹の節・鋸の歯・市松といった直線模様などに典型的に表わされています。この模様の数は200とも300とも言われています。そしてこれらを組み合わせて創り出される、無数のバリエーションは、緻密な構成力と共に、日本の近代化時代の危機を乗りこえて今日に伝えられています。http://www.echizen-ya.co.jp/data/sensei/kamata/koginrekisi.htm より

《紺屋町》弘前城築城当時から、ここは染物屋の町として町割りされ、百軒以上もの染物屋が建ち並んでいたところです。当時、染物屋のことを「紺屋」と呼んだ事から、この町名がつけられたといわれています。http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/03_12/07sinise/ より

弘前城の北門(亀甲門)に面した亀甲町に川崎染工場があります。筋向かいには津軽藩ねぷた村、城の掘割に沿った亀甲町の通りは、御用商人が軒を連ねた旧仲町。津軽商家として有名な石場家や武家屋敷の旧岩田家、旧伊東家、旧梅田家などの住宅が近くにあり、落ち着いた城下町の風情が漂っています。津軽4代藩主信政は城西方の紺屋町に、京都から技術者を招き藍染の振興を図りました。藩政時代、亀甲町の紺屋川崎家は津軽藩から100軒もの紺屋を取り締まる役を命じられました。紺屋川崎家の建物は江戸時代後期の天明、寛政、あるいはそれ以前と推定されます。積雪の時に屋根の下が人の通路となる小店が残っていて、雪国津軽の生活文化を感じさせます。藍染は昭和初期まで続きましたが、化学染料の普及で紺屋は全滅。川崎家も化学染料の染物を扱い、京都の染屋の取次店を務め、一度老舗紺屋としての歴史に幕を下ろしました。11代川崎昭三は教師だったため、藍染を知らなかったのですが、教職を退いてから津軽藍染に興味を抱き、学び始めました。平成3年の台風で建物の屋根が飛ばされ、柱がぐらついて家を修理したことがありました。そのとき床下の土中から出てきたのが11個の藍がめだったのです。先祖が大切に保存していたものです。「これを生かそう」と昭三は思い、藍染の修業を重ね、本格的に藍染の製作を開始しました。昭三夫婦と社員が何人かいましたが人手が足りず、長女恵美子さんが勤務先を辞めて店の販売に従事しました。しかし、不眠不休で紺屋川崎家の藍染復活にかけた昭三は、平成5年4月に肝炎のため急逝。店は存亡の危機に直面しました。先代の急逝で12代当主となった恵美子さんには試練が待っていました。藍染の技法を習う前に、先代が亡くなったからです。思い余って恵美子さんは藍の原料「すくも」の仕入れ先である徳島県の新居修さんに相談しました。岩手県石鳥谷町の藍染職人滝浦輝夫さんを紹介されて、染め液の作り方といった藍染の知識と技術を教わったのです。恵美子さんが藍染に打ち込み、瞬く間に10年が過ぎました。「技術は自分で経験を重ねて覚えていくしかない。10年で地元の皆さんに藍染の店のことを知っていただくことができた。これからが大事だと思う」。恩師の滝浦さんからは「儲けることを考えては駄目だ。伝統工芸を伝えていくということを考えて仕事をしなさい」と助言を受けています。津軽藍染を幅広く知ってもらうため、先代が平成4年から始めた体験学習は好評です。http://siva.cc.hirosaki-u.ac.jp/rika/kagaku/kitahara/dai5.html より

《アトピー性皮膚炎治療薬の開発研究》民間伝承として多くの効用が言い伝えられているにも関わらず、その化学的な実証はほとんどなされていません。科学者間で、「藍」は「藍染の植物」という意識が強く、一般に知られている植物のわりに、生理活性物質の探索が少ないという状態でした。しかし、「漢方薬(Chinese Drug)」が世界的に注目されるようになり、今日では化学・医薬学分野において盛んに研究が行われています。http://siva.cc.hirosaki-u.ac.jp/rika/kagaku/kitahara/dai5.html より