青の伝説(72) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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染め織り

紀元前四千五百年頃のインダス文明遺跡に藍染めの工房が発見されているように、非常に古い歴史を持ちます。日本では二世紀頃、中国から蓼藍(たであい)が移植され藍染めが始まったと考えられています。その時代は穴を掘っただけの原始的な染めでしたが、奈良時代に入り土器を使用するようになり、“すくも”を使用し藍甕で醗酵させて染める手法は、室町時代に確立されたようです。沖縄はかつて琉球と呼ばれ、小国ながら独立した王国でした。14世紀後半、中国に誕生したばかりの明の国と冊封・進貢関係を結び、日本・東南アジアと中国との間の中継貿易の担い手として、大航海時代と呼ばれる一時代を築きます。沖縄の伝統的な染めと織りは、この時代に中国や日本、アジア諸国から琉球に渡来した文物の影響を受け、やがて独自の発展を遂げたと考えられています。http://www.pref.okinawa.jp/summit/jp/some/some_3_a/index2.htm より

《読谷山花織》画像左端。1372年、読谷の長浜港から一艘の進貢船、泰期を中心とする若者達が、琉球王府の王弟として、初めて中国と交易を行います。これが、琉球王国と中国の歴史をつくる発端となり、これ以降、琉球は大交易時代を開き黄金時代を迎えます。時を同じく東南アジア諸国との南蛮交易も盛んになり、花織もブータンより交易品と共に花織布が伝来し、独自に織られるようになりました。この織物は、琉球王府の保護のもと御用布に指定され王府の士族と読谷の人々以外の着用が禁じられていましたが、明治の中期から衰退し幻の花織となりました。600年の歴史をほこる読谷山花織は、絶滅寸前に読谷村の情熱ある有志によって、昭和39年に約90年ぶりに「幻の花織」が復活しました。当初は愛好会から、読谷山花織事業協同組合の組織化に発展し現在は、昭和50年沖縄県指定無形文化財また昭和51年経済産業大臣(旧通商産業大臣)指定伝統的工芸品として全国に広く知られるようになりました。(特徴と技法)読谷山花織は、紋織の一種で浮織であります。白、赤、黄、緑等の糸で織り出されている紋様は花のように美しく情熱の織物として知られています。花織の技法は、花綜絖の織方と手で差し込みながら織る手花(縫取織)とが絣を併用された織物であり、沖縄では一番古く紋織の発祥の地となっております。(染め)可憐な花柄は、フクギやヤマモモの黄色、テカチやグール茶色、緑色は琉球藍と黄色染料の重ね染めで染められ、草木染を用いて表わします。深みのある紺の地は琉球藍で染められています。染めは、染料を煎じたもので何回もくり返し染め、独特な色相を出します。(織り)花柄はジンバナ(銭花)、カジマヤー(風車)、オージバナ(扇花)の3つの基本花とする30種余の幾何学模様で織り、これに絣や縞、格子の加わった模様となる。http://www.yomitan.jp/kankou-joho/dentoukougei/hanaui.htm より

《宮古上布》画像中央。今から400年前もの昔、琉球の進貢船が台風に遭い沈没寸前になった。そこにちょうど乗り合わせていた宮古の州鎌与人・真栄という男が勇敢にも海に飛び込み、船の故障をなおして乗組員の命を救った。このことが琉球王の耳に入り、王はその功績を讃えて真栄を間切頭主として任命した。妻の稲石はそのことを大いに喜び、心を込めて布を織り王に献上した。これが宮古上布の世に出るきっかけとなった。しかし、その後の歴史は皮肉にも「人頭税」という悪税が施行され、美しき故に宮古上布は「上納布」として久しく女性の苦役を招くことになった。http://homepage1.nifty.com/takigorou/ori2001-10-6.htm より

幾度も染め抜かれた藍色の糸が美しく織り上げられ、重厚な雰囲気を醸し出す。製糸作業は苧麻績み(ブーンミ)と呼ばれ、極めて細い苧麻の繊維を手でより合わせる地道な作業。糸は琉球藍で20回以上にわたって染め上げられる。極細の糸を使う織りは熟練の腕をもってしても1日に20センチほどしか進まない。最後は砧打ちによって独特の上品な光沢を出し仕上げとなる。糸づくりから1反を仕上げるのに1年以上かかるという。その技術は1978年、国の重要無形文化財に認定されている。http://www.cosmos.ne.jp/~miyako-m/htm/shima-sanhin/simasanhin_040727.htm より

《芭蕉布》画像右端(作者:平良敏子)。手績みされた糸で織られた芭蕉布は沖縄固有で世界でも希少な織物です。透明感のある地色に、琉球藍の紺絣、車輪梅の赤茶絣は清楚で涼しげです。また肌にべとつかず、軽くてさらりとした風合いは、夏着尺として珍重されています。芭蕉布は、数多い沖縄の織物の中でも最も古い織物です。13世紀頃にはすでに織られていたと考えられています。喜如嘉でも古くから生産されていたようですが、1893年に来県した弘前藩出身の役人が大宜味間切の産品として、木綿飛白(かすり)と並び、芭蕉布(紺地561反、白地249反)と書き記しています。ただ、当時はそのほとんどが自家用として使われるにとどまり、村外に出荷されることは少なかったようです。その後、1895年に仲原ナベという女性が、それまで無地や縞が主流だった芭蕉布に初めて絣柄を採用、また1905年には高機が導入されたほか、平良敏子の祖父・平良真祥が自分の娘に花織や絽織の講習を受けさせるなど、技術革新と生産拡大の気運が高まります。根路銘で芭蕉布品評会が開かれたのを皮切りに、副業として芭蕉布の生産が奨励されるようになりますが、その背景には、原料の糸芭蕉は生命力が強く、耕地の少ない村に適していたことと、男たちの村外への流出という事情があったようです。もともと喜如嘉には船大工が多く、彼等は優秀な大工としてこぞって那覇へ進出していったため、村に残された女性たちの仕事として芭蕉布が見直されたのです。沖縄を代表する伝統工芸品として認知されるようになると、本土からの注文も増え、1978年には、個々の品質格差をなくすため規格を統一し、証紙が貼られるようになります。しかし、後継者不足や、織り手の高齢化などの問題を抱える現在、喜如嘉での年間生産高は約250反程です。http://www.online-kimono.com/book-tizu/bashoufu.shtml より

《琉球藍(りゅうきゅうあい)》キツネノマゴ科に属する多年草で、山藍、唐藍などとも呼ばれます。蓼藍のように“すくも”にはせず、泥藍(沈殿藍)にして染めます。収穫は年二回で、6~7月のものを夏藍、9~10月のものを冬藍といいます。沖縄では蓼藍との併用も行われ、琉球藍を男藍、蓼藍を女藍と呼ぶ人もいます。《蝦夷大青(えぞたいせい)ウォード》アブラナ科の二年草。北海道で採れる大青なので「蝦夷大青」又は北海道藍と呼ばれます。つまりアイヌの藍です。ヨーロッパ(特にイギリス)の藍はこの大青でウォードといい、古代エジプトの藍も大青であると考えられています。《インド藍(南蛮駒繋なんばんこまつなぎ)》マメ科の亜潅木。草ではないので木藍とも呼ばれます。日本では沖縄県小浜島で採れ、泥藍で染めます。明治時代に大量に輸入され、蓼藍の衰退する原因となったともいわれています。《蓼藍(たであい)》日本の藍。藍草とも言います。蓼科の一年草で藍染めの原料として中国から伝わったものと考えられていますが、現在は日本だけで使われています。花は雑草の蓼と良く似ていて、淡紅色、紅紫色または白色です。現在は主に小上粉(こじょうこ)という品種が使われています。http://www.dento.gr.jp/konyu/jp/jiten.html#dic10 より