《青色を染める染料》(A)すくも=日本の藍。タデ科の植物であるタデアイの葉を堆肥状に発酵させたもの。(B)インド藍=マメ科のインジゴフェラ属の植物の葉の抽出液から藍の色素を生成させ、沈殿させたもの。(C)琉球藍=キツネノマゴ科の植物。沖縄では沈殿藍(泥藍)にして染料としている。(D)ウォード=ヨーロッパで使われてきた藍植物。アブラナ科。(E)臭木=クマツヅラ科の落葉小高木。山野に普通にはえている。葉や花に強い臭いがあるので、この名がある。果実を用いる。以上が、一般的な青染料である。「におい」という部分では生臭いということで「虫」を連想させるかもしれないが、これまでも書いてきたように、青染料の「におい」は科学的根拠がうすいものの「蝮除け・虫除け」になると信じられてきており、「虫」から「青」染料を得ることには全くつながらず、その逆で虫を遠ざけることになる。「虫」から染料を得るのは「コチニール」すなわち「赤」染料であり、「貝」からは「紫」染料が得られる。「赤」や「紫」が「青」と混同された事実は歴史を調べても出てこない。
《かさねの色目》虫青(むしあお)というのがある。表:青(黒味あり)、裏:二藍(=青みの紫、藍で下染めして、紅花染)。「かさねの色目」は、平安時代の宮中で使われた配色形式で、装束や調度品など、あらゆるものに当てはめられた。その配色は、四季折々の自然や動植物の色彩と、密接に結びついている。季節の移り変わりの微妙な色彩の変化まで、逃すことなく取り入れた結果、その数は今に伝わっているだけでも、200種以上になる。四季を通じて使える配色もあるが、ほとんどは、使う時期が限定されており、いかに、その時候にあった色目の衣装を調えるかは、当時の貴族にとって、非常にセンスと教養を問われることであった。そして、そのセンスと教養の有無が、出世にまで影響する死活問題だった当時の文化において、単なる色遊びが、色彩芸術と呼べるレベルにまで高められた。「かさねの色目」には、あわせの着物の表地と裏地の布の配色を楽しむ「重ね色目(合わせ色目)」、十二単のように着物を重ね着していく時の「襲(かさね)色目」、「織色」と呼ばれる縦糸と緯糸の色の違いで玉虫色の効果をだす「織り色目」の3種類がある。「重ね色目」で重要なのがその素材。平安貴族が着たものですから、当然素材は絹、それも、最上質の薄手の絹織物になる。表と裏に違う色の布を使って仕立てた場合、表の絹地をかすかに通して、裏の地色が透けて見えることになる。たとえば、「桜」という色目の場合、表が「白」で、裏が「赤」。表の「白」の上質な絹地から、裏の「赤」がほんのりと浮かび上がって、柔らかなピンク色になる。まさに、「桜」の花の風情である。平安時代の絹織物は、さまざまな技術的な問題や蚕そのものの種類の影響などから、現在の絹織物よりもかなり薄かったと考えられており透過率は3~5%程度、夏はさらに「生絹(すずし)」を用いたので10%程度の透過率であろう。さて「虫青」は秋から冬にかけての「重ね色目」であるが、四季通用説(山科流)もある<出典「雁衣抄」>。虫襖とも書く。「虫」は玉虫のこと。玉虫の羽の色を模した色目。本来「虫襖」は経青緑・緯紫で織った「玉虫」の織色をあらわし、その織色を模した色目ともいえる。着用時期は秋から初冬、或は冬。平安文学にこの色目の衣は散見せず、のちの『吾妻鏡』に登場していることから、鎌倉時代にうまれた色目だと思われる。
《二藍》二藍は「藍」と「紅(くれない)」をあわせて掛け合わせた色のこと。「くれない」とは「呉(中国)の藍」のことで、当時「藍」は染料全般を指す言葉だった。この二種の染料の掛け合わせ具合で色は大きく異なり、一般に若いほど紅が強く、年齢が上がるほど藍が強くなったようである。したがって、「二藍」は一定の色彩ではない。
《袍の色彩》袍(ほう・うえのきぬ)は「位袍(いほう)」と呼ばれるとおり、その色彩は位階に応じている。聖徳太子の冠位12階(冠の色彩):推古天皇11年に始まり、様々な歴史的変遷がある。衣服については冠色に準じたと考えられているが、記録としては聖徳太子時代よりもずっと後年に編纂された日本書紀の記載であり、どこまで真実の記録かは不明である。この後、冠は色彩のみでなく織り方による区別もなされ、大化改新後の孝徳天皇3年に13階、天智天皇3年には26階にもなっていく。聖徳太子時代には冠の色であった当色(とうじき)であるが、やがて冠の縁、そして服の色へと変化していく。天武天皇の60階服色・・・この時代の冠は黒色になっている。持統天皇の60階服色では、かなり律令の服色に近い序列になっている。この後、大宝律令、そして養老律令で官位制度や服色が統一されていく。律令では天皇の袍色は不明だが、白と考えられている。平安初期に黄櫨染と定められた。当色に変遷があるのは常に上位を目指したい願望と同時に、紫染めが材料技法ともに容易でなかったため、紫を濃くして黒(一旦紅で染めた後に黒を染めます)になったということと、6位以下の叙位が稀になったためと言われている。6位の「緑」は藤原時代には縹色になっているが、名称のみ「緑」のまま残っている。裏地の色は表地の色と同じが原則であり、縹袍の裏には蘇芳色を用いる。藤原時代以降の5位は深緋になったが、当色(とうじき)の違反を取り締まる堅い官職である検非違使や弾正台、太政官の5位官人は令制を守って浅緋を着用した。これを「朱ふつ」と呼んでおり、裏地の平絹の色で識別する。袍が位階によって色の定めのある「位袍」であるのに対して、直衣は平常着であり特に色の定めがなく「雑袍」と呼ばれている。しかし単なる平常着ではなく、天皇の許し「雑袍勅許」があれば宮中に着ていくことも許される準公服の側面もあった。皇族は直衣姿で参内することが元々許されていた。当初、さまざまな色が許されていたようだが、宮中にも着ていくようになった院政時代(あるいは摂関時代)には冬は白の固地綾(親王は小葵文、臣下は浮線蝶丸文)、夏は穀織(三重襷文)に固定された。色彩は冬は天皇の「引直衣」に準じて白。裏地は平絹で二藍(40歳まで)または縹(40歳以後)と定められた。このように、若い人ほど色を濃く、歳をとるごとに薄くするのが彩色の定法で、縹にしても年齢が上がるに従って薄くなり、浅葱に近くなる。文様は若年ほど小さな文が密、歳を経るごとに文が大きくなりまばらになる。夏の穀紗(顕文紗文穀)の色彩は原則として冬の裏地色と同色を用いる。狩衣は禁色(皇族摂関などだけが用いることのできる色彩や文様)を除きまったく自由であった。そのためにもっとも色彩豊かで「重ね色目」という、表と裏の色の組み合わせを楽しんだ。この重ね色目には諸説あり、典拠する本によって全く異なる記述がなされている。
《禁色(きんじき)と忌色(いみじき)》狩衣や女房装束の色は自由に選んだカラフルなものだったが、特に使用が制限された色がある。それが禁色と忌色。禁色は皇族や高位の公卿のみに許された色で、この色を服色に用いるのには「禁色勅許」が必要だった。この許可があることは一つのステータスとして扱われ、「色許されたる人」として殿上人の中でも羨望の対象であった。蔵人の年功者は天皇の袍色である「青色」を「麹塵色」と称して着用することができた。清少納言はそのことを枕草子の中で何度も賞賛している。禁色には3つの意味があり、(1)位袍の当色(とうしき)が位階不相応である色は使えない。自分より下位の色は使用可。(2)有文の綾織り物は許可なくして使えない。(3)禁色七色の使用不可<支木(くちなし・黄丹に似る)、黄色、赤色、青色、深紫、深緋、深蘇芳>。明治以降、装束界で禁色とされるのは「黄櫨染」と「黄丹」の二色。一方忌色は文字通り凶事に際してのみ用いられるもので、普段は使用することを避けた。なお「黒橡(くろつるばみ)」は四位以上の「黒袍」と同じ色に見えるが、黒袍は本来紫が濃くなったものであり、一度紅で染めてから黒く染めたので、決して「黒橡」とは言わない。「橡」は濃い色を意味し、禁色である「青白橡」(青色と同色)、同じく禁色の「赤白橡」(黄櫨と茜で染色)などがある。ただこの「橡」は謎の色で本来はドングリを鉄で媒染した黒褐色を示し、現代の制度でも「橡」とだけ言えば黒色のこと。ところが「白橡」という言葉があり、これは白色。前記の「青」「赤」もそこから来た表現だと思われる。「白橡」は凶服の淡くなった白色のことを指し、吉服の「白」と区別したとも言われるが、高貴色禁色としての前記色との齟齬がある。鈍(にび・にぶ)色は、単純なグレーではなく、水色が少し入った色調。青鈍(あおにび)色は、鈍色よりもやや軽い凶服の色とされる。萱草色(かぞういろ)は凶事の際の女子の袴の色で、「柑子色(こうじいろ)」と同色とも言われる。色彩には諸説あり。今日の忌色は「鈍色」「橡(黒橡)」「萱草色」「柑子色」の四色とされている。